陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

717.野村吉三郎海軍大将(17)野村吉三郎少佐がオーストリアから転じた頃のドイツは、全ヨーロッパの台風の眼ともいうべき存在となっていた

2019年12月20日 | 野村吉三郎海軍大将
 オーストリアに二年駐在勤務をした後に、野村吉三郎少佐は、明治四十三年五月、ドイツ駐在となり、ベルリンに転勤した。

 当時のドイツもまた、オーストリアと同様に複雑な国家組織を持っていた。

 フランス帝国(第二帝政期)とプロイセン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部が領土・首都はベルリン)の戦争である普仏戦争(一八七〇年<明治二年>七月十九日~一八七一年<明治三年>五月十日)は、プロイセン帝國の圧勝で終結した。

 フランス第二帝政は崩壊し、ドイツ統一が達成され、新憲法を公布したドイツ人は、初めて民俗的統一国家を持った。

 この新しい統一国家は“ドイツ帝国”と呼ばれた。だがこの民族的統一国家であるドイツ帝国の内容は、オーストリア以上に複雑を極めた。

 当時のドイツ帝国は、四王国、六大公国、五公国、その他合計二十二の君主国と三自由市、一帝国領から構成される連合複合国家といえた。

 このドイツ国家の強力な中心をなすものは、プロイセン王国であった。ドイツ帝国の元首は“皇帝”と称され、プロイセン王国の国王が兼ねた。また、ドイツ帝国宰相もプロイセン王国の首相が兼ねた。

 そして、この新ドイツ帝国の最も特質とするところは、最高の行政機関としての“帝国宰相は、単に皇帝にのみ責任を負い、議会に対しては責任を持たないことである。

 宰相は皇帝を補佐するのみであって、近代的な責任内閣の首班ではない。それでも“鉄血宰相”の在任中は、“帝国宰相”の権威は高かったが、ビスマルクが退いた後のドイツ帝国は、カイザー・ウィルヘルム二世の思うままで、一種の皇帝親政に近かった。

 だから、野村吉三郎少佐がオーストリアから転じた頃のドイツは、全ヨーロッパの台風の眼ともいうべき存在となっていた。ウィルヘルム二世一流の対外的積極政策がとられていたのだ。

 このドイツ帝国でも、野村吉三郎少佐は、ドイツ帝国の内情やドイツ帝国を取り巻くヨーロッパ各国の情勢を見聞し、さらに、二度のヨーロッパ旅行を行い、軍事、政治、外交について多大の収穫を得たのである。勿論、海軍に関する調査研究も行った。

 ヨーロッパ生活も満三年となった野村吉三郎少佐は、明治四十四年五月八日付けで帰朝を命ぜられた。

 野村吉三郎少佐は、オーストリア、ドイツ、さらに二回に亘るヨーロッパ旅行で仕入れた新知識をその巨体に詰め込み、一路帰途につき、八月十九日、無事に帰国した。

 帰国後の野村吉三郎少佐の最初の仕事は、九月十三日付けをもって、第二艦隊所属の防護巡洋艦「音羽」(三〇〇〇トン)の副長に補任された。

 その後、野村吉三郎少佐は、明治四十五年六月に海軍省軍務局局員になり、大正二年二月二十六日には、海軍大臣秘書官、十二月には中佐に進級した。三十六歳だった。
 
 野村吉三郎少佐が大臣秘書官に補任された時は、第一次山本内閣が発足(大正二年二月二十日)したばかりだった。

 内閣総理大臣は山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)海軍大将(鹿児島・海兵二期・大臣伝令使・海軍次官欧米差遣随行・大佐・巡洋艦「高雄」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・海軍省主事・少将・海軍省軍務局長・中将・海軍大臣・男爵・大将・大将・軍事参議官・伯爵・内閣総理大臣・予備役・退役・内閣総理大臣兼外務大臣・宮中杖差許・昭和八年十二月死去・享年八十一歳・伯爵・従一位・菊花章頸飾・功一級・ドイツ帝国赤鷲一等勲章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)だった。

 海軍大臣は斎藤実(さいとう・まこと)大将(岩手・海兵六期・三番・中佐・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・防護巡洋艦「霧島」艦長・海軍次官・少将・海軍総務長官兼軍務局長・海軍次官兼軍務局長・中将・海軍次官兼軍務局長兼艦政本部長・海軍大臣・男爵・大将・朝鮮総督・子爵・ジュネーヴ会議全権・後備役・枢密顧問官・退役・朝鮮総督・内閣総理大臣・内大臣・昭和十一年二月二十六日暗殺・享年七十七歳・子爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ・オランダ王国オランジュナッソー第一等勲章等)だった。