陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

716.野村吉三郎海軍大将(16)事実、ウィーン駐在は、後日、野村吉三郎雄飛の基礎を養った

2019年12月13日 | 野村吉三郎海軍大将
 しかしながら、この寄せ集めてきな国家の存在が、当時の東部ヨーロッパの勢力均衡を保つことに役立っていたのである。

 さらに、日本にとって、当時のオーストリア帝国は、ロシアの隣国として、ロシア国内の内情を最も早く、かつ正確に伝える位置にあった。

 従って、オーストリア帝国に派遣される、日本の外交官や陸海軍武官は、ロシアの動きを常に観察することを前提として勤務していた。

 オーストリアに駐在していた野村吉三郎大尉が、ウィーンに着任した当時のオーストリアの国際的立場は、難しい様相を見せていた。

 当時のオーストリアは、ドイツ、イタリアと「三国同盟」(一八八二年<明治十五年>締結)を結んでおり、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」と対抗していた。複雑な国家組織と困難な国際的立場に板挟みになっていた。

 ちなみに、その数年後、さらに第一次世界大戦を勃発させる引き金となった大事件、サラエボ事件が起きている。

 サラエボ事件とは、一九一四年(大正三年)六月二十八日、オーストリアの皇太子、フランツ・フェルディナント大公夫妻が、セルビア人の青年により暗殺された事件。

 七月二十八日、オーストリア=ハンガリー帝国は、セルビアに宣戦布告をした。するとロシアはセルビアを支援するため、七月二十九日、総動員令を出し出兵した。

 これに対し、八月一日、ドイツがロシアに宣戦布告をし、動員令を発した。こうして第一次世界大戦が勃発した。

 なお、サラエボ事件が起きた、一九一四年(大正三年)当時は、野村吉三郎少佐は、帰国(明治四十四年八月)後数年経っており、海軍大臣秘書官(中佐)をしていた。

 さて、話は元に戻って、明治四十一年(一九〇八年)九月、オーストリアのウィーンに駐在していた野村吉三郎大尉は、少佐に進級した。三十歳だった。

 当時のオーストリア駐箚特命全権大使は、内田康哉(うちだ・こうさい・熊本・東京帝国大学法科卒・外務省・通商局長・政務局長・清国駐箚特命全権公使・オーストリア駐箚特命全権大使・米国駐箚特命全権大使・外務大臣・枢密顧問官・南満州鉄道総裁・外務大臣・昭和十一年三月死去・享年七十歳・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・オーストリア=ハンガリー帝国レオパール大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)だった。

 陸軍駐在武官は、福田雅太郎(ふくだ・まさたろう)大佐(長崎・陸士旧九期・陸大九期・オーストリア公使館附武官・大佐・参謀本部情報課長・歩兵第三八連隊長・歩兵第五三連隊長・少将・歩兵第二四旅団長・関東都督府参謀長・参謀本部第二部長・中将・第五師団長・参謀次長・台湾軍司令官・大将・関東戒厳司令官・予備役・大日本相撲協会会長・枢密顧問官・昭和七年六月死去・享年六十五歳・従二位・勲一等旭日大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)だった。

 海軍駐在武官は、百武三郎(ひゃくたけ・さぶろう)中佐(佐賀・海兵一九期・首席・海大三期・軍務局局員・大佐・装甲巡洋艦「磐手」艦長・巡洋戦艦「榛名」艦長・第二艦隊参謀長・少将・佐世保鎮守府参謀長・海軍教育本部第二部長・中将・第三戦隊司令官・鎮海警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・練習艦隊司令官・佐世保鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・侍従長・枢密顧問官・昭和三十八年十月死去・享年九十一歳・従二位・勲一等旭日大綬章)だった。

 陸軍駐在武官・福田雅太郎大佐と海軍駐在武・百武三郎中佐は、二人とも、先輩として、野村吉三郎少佐の世話をよくしてくれた。

 野村吉三郎少佐の仕事は、はっきりと定められたものではなく、要するに長期のヨーロッパ見学であった。

 若い海軍少佐、野村吉三郎は、あらゆる角度からオーストリアを中心とするヨーロッパ各国の動態を観察した。ある意味、彼は、このような広く豊かな立場に置かれ、恵まれた環境にいたともいえる。

 「海軍大学校などで、兵棋演習などしているよりも、列強の勢力が暗躍を繰り返している、このウィーンのほうが、よほど勉強になる……」。

 このように考えた野村吉三郎少佐は、ハンガリーの首府ブタベストをはじめ、ヨーロッパ各国を廻って見聞を広めた。事実、ウィーン駐在は、後日、野村吉三郎雄飛の基礎を養ったのである。