源田実の著書、「源田実 語録」(善本社)は、昭和四十八年に発行された。六十九歳の時である。この当時の、源田実は参議院議員で、昭和四十三年に自民党政調会国防部会長に就任、昭和四十九年には勲二等瑞宝章を受章している。
「源田実 語録」(源田実・善本社)所収「軍人にすれば士気はあがる」の中で、著者の源田実は、次の様に述べている。
自衛隊員に誇りを持たせ、その士気向上をはかることは、多くの人々によって唱えられ、若干その施策も行われて来た。
私は自衛隊員の全般的な士気が、旧軍人や外国軍隊のそれに比べて、遜色のあるものとは思わないし、総合的にはむしろ、勝っているとさえ思うのである。
自衛官の処遇改善とか、国民的支持を受けるための諸施策は、いろいろと論議されるが、その根本にメスを入れた意見は、タブーなのか見当たらない。
根源をつく施策とは何か―それはいうまでもなく、自衛隊の存在や地位に対する憲法上の疑義を完全に払拭することである。
この事は、憲法論文の法律技術的解釈などの小手先の業によって、解決できるものではない。もちろん、自衛権は、それぞれの国家が本質的に保存しているものであって、この存在に疑義を差しはさむことは許されない。
しからば、憲法の条文中に、自衛権の存在に対して疑義を抱かせるような表現が使われているならば、当然これを改定して、明々白々たるものにすべきである。
憲法前文中の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」、および第九条の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と……うんぬん」、また同条第二項の戦力不保持、交戦権否認の表現は、疑義を持たせるに十分である。
大体、一国の国民が祖国防衛の義務を負っていないなどということ自体が、はなはだおかしいのであって、われらは憲法にその義務がうたわれていなくとも、自衛権と同様に、本質的にこの義務を負っているものと考える。
自衛権の存在や祖国防衛の義務などは、憲法の明文に記載するのが最も好ましい処置であり、次はなんらこれに触れることなく、自明の理として適用させることである。これに疑義を持たせるような表現を憲法に記載することは、下策中の下策である。
すなわち、憲法を改正して、自衛隊を国防軍に改編し、隊員を軍人として処遇するとともに、国民全部が国防の義務を負うことを、はっきりと明文化すべきである。そうすれば自衛隊員の士気は、必然的に高揚するのである。
国防や憲法に関する問題は、避けて通れるものではない。これに堂々と取り組むことこそ、国権の最高機関である国会の、そして政治家の当然の責務であると信ずる。
以上が、旧日本帝国海軍二十四年、戦後の航空自衛隊八年、そして国会議員二十四年を勤めた源田実の、自衛官に対する思いを込めた主張である。
だが、源田実は、自分自身を、戦闘機パイロットとしての生涯と位置付けている。源田実は五十代になって、自衛隊機のF86F(セイバー)、F104(スターファイター)、米軍機のF11(スーパータイガー)、F102、F106、F5などのジェット戦闘機を操縦している。
晩年になっても、源田実は、「今でも自由に職業を選べるなら、また戦闘機パイロットを選ぶ」と語っている。「源田実 語録」(源田実・善本社)の中でも、次の様に述べている。
「わたくしは元来、戦闘機のパイロットである。一九二八年、海軍のパイロットになって以来、ひたすら戦闘機の操縦においては、『技、神に入る』ことを念願して、努力してきました」
「海軍と自衛隊を通じて、約三十年にわたる飛行生活において、一日たりともこの“希望”を捨てたことはありませんでした」。
源田実は、国会議員を辞めて間もなく体調を崩し、二年後の平成元年八月十五日、療養先の松山市内の病院で脳血栓のため死去した。従三位、勲二等旭日重光章。享年八十四歳。
ちょうど終戦の日、そして思い出深い、第三四三海軍航空隊「剣部隊」発足の地、四国の松山で、その波乱万丈な生涯を終えるとは、どこまでも劇的な源田実だった。
源田実は明治三十七年八月十六日生まれだから、ちょうどぴったり、八十四年の生涯だった。死の二年前まで公職から離れられなかった源田実は、まさにその人生の全てを国に捧げた、稀有で純粋な武人だった。
(今回で「源田実海軍大佐」は終わりです。次回からは「桂太郎陸軍大将」が始まります)
「源田実 語録」(源田実・善本社)所収「軍人にすれば士気はあがる」の中で、著者の源田実は、次の様に述べている。
自衛隊員に誇りを持たせ、その士気向上をはかることは、多くの人々によって唱えられ、若干その施策も行われて来た。
私は自衛隊員の全般的な士気が、旧軍人や外国軍隊のそれに比べて、遜色のあるものとは思わないし、総合的にはむしろ、勝っているとさえ思うのである。
自衛官の処遇改善とか、国民的支持を受けるための諸施策は、いろいろと論議されるが、その根本にメスを入れた意見は、タブーなのか見当たらない。
根源をつく施策とは何か―それはいうまでもなく、自衛隊の存在や地位に対する憲法上の疑義を完全に払拭することである。
この事は、憲法論文の法律技術的解釈などの小手先の業によって、解決できるものではない。もちろん、自衛権は、それぞれの国家が本質的に保存しているものであって、この存在に疑義を差しはさむことは許されない。
しからば、憲法の条文中に、自衛権の存在に対して疑義を抱かせるような表現が使われているならば、当然これを改定して、明々白々たるものにすべきである。
憲法前文中の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」、および第九条の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と……うんぬん」、また同条第二項の戦力不保持、交戦権否認の表現は、疑義を持たせるに十分である。
大体、一国の国民が祖国防衛の義務を負っていないなどということ自体が、はなはだおかしいのであって、われらは憲法にその義務がうたわれていなくとも、自衛権と同様に、本質的にこの義務を負っているものと考える。
自衛権の存在や祖国防衛の義務などは、憲法の明文に記載するのが最も好ましい処置であり、次はなんらこれに触れることなく、自明の理として適用させることである。これに疑義を持たせるような表現を憲法に記載することは、下策中の下策である。
すなわち、憲法を改正して、自衛隊を国防軍に改編し、隊員を軍人として処遇するとともに、国民全部が国防の義務を負うことを、はっきりと明文化すべきである。そうすれば自衛隊員の士気は、必然的に高揚するのである。
国防や憲法に関する問題は、避けて通れるものではない。これに堂々と取り組むことこそ、国権の最高機関である国会の、そして政治家の当然の責務であると信ずる。
以上が、旧日本帝国海軍二十四年、戦後の航空自衛隊八年、そして国会議員二十四年を勤めた源田実の、自衛官に対する思いを込めた主張である。
だが、源田実は、自分自身を、戦闘機パイロットとしての生涯と位置付けている。源田実は五十代になって、自衛隊機のF86F(セイバー)、F104(スターファイター)、米軍機のF11(スーパータイガー)、F102、F106、F5などのジェット戦闘機を操縦している。
晩年になっても、源田実は、「今でも自由に職業を選べるなら、また戦闘機パイロットを選ぶ」と語っている。「源田実 語録」(源田実・善本社)の中でも、次の様に述べている。
「わたくしは元来、戦闘機のパイロットである。一九二八年、海軍のパイロットになって以来、ひたすら戦闘機の操縦においては、『技、神に入る』ことを念願して、努力してきました」
「海軍と自衛隊を通じて、約三十年にわたる飛行生活において、一日たりともこの“希望”を捨てたことはありませんでした」。
源田実は、国会議員を辞めて間もなく体調を崩し、二年後の平成元年八月十五日、療養先の松山市内の病院で脳血栓のため死去した。従三位、勲二等旭日重光章。享年八十四歳。
ちょうど終戦の日、そして思い出深い、第三四三海軍航空隊「剣部隊」発足の地、四国の松山で、その波乱万丈な生涯を終えるとは、どこまでも劇的な源田実だった。
源田実は明治三十七年八月十六日生まれだから、ちょうどぴったり、八十四年の生涯だった。死の二年前まで公職から離れられなかった源田実は、まさにその人生の全てを国に捧げた、稀有で純粋な武人だった。
(今回で「源田実海軍大佐」は終わりです。次回からは「桂太郎陸軍大将」が始まります)