「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、南雲忠一の父、周蔵は上長井村(現米沢市遠山地区)の村長をしていたが、経済的には恵まれなかった。
南雲忠一は六人兄妹の末っ子で次男である。長女のこまと次女のふみは早く他家に嫁し、三女は生まれると間もなく死亡したといわれている。
長男徳一郎は生涯無為に暮らし、昭和14年、隠居して、家督を忠一に譲っている。
南雲家の向かいにある本間家の主人は「徳一郎さんは、戦争前、よくお茶を飲みに遊びに来た。しばらく世間話をしたかと思うと、一旦帰り、またお茶を飲みに来た」と戦後語っている。悪い人間ではないが働く気がしないのである。
忠一のすぐ上の姉、きくは幼い時から知恵が遅れ、生涯、忠一の世話になり、昭和17年3月、台山の家で死亡している。そして、その一月前に徳一郎も世を去っている。
忠一の母、志んは、昭和5年8月7日、81歳で世を去った。忠一は母親孝行で、昭和3年、鎌倉市扇ヶ谷に借家を借りて、母を引き取っている。
また、忠一は駅の陸橋を母を背負って越えた事もある。海軍中佐の頃である。父、周蔵は大正14年に没している。忠一自身は、妻りきとの間に、娘一人、男子五人の子供をもうけている。
<南雲忠一海軍大将プロフィル>
1887(明治20)年3月25日生れ。山形県米沢市信夫町出身。父、南雲周蔵、母、南雲志ん。二男で6人兄弟の末子。終生米沢弁が抜けなかった。
1908(明治41)年 海軍兵学校(36期)卒 卒業成績191人中5番。
1910(明治43)年1月海軍少尉、砲術学校。
1911(明治44)年12月海軍中尉、水雷学校。
1914(大正3年)12月海軍大尉。
1920(大正9)年12月 海軍大学校甲種(優等)卒、海軍少佐。軍令部出仕。1923(大正12)年11月 海軍大学校教官。
1924(大正13)年12月 海軍中佐。
1929(昭和4)年11月 海軍大佐、軽巡「那珂」艦長。1930(昭和5)年11月1日 第11駆逐隊司令。
1931(昭和6)年10月10日 軍令部第2課長。1933(昭和8)年11月15日 重巡「高雄」艦長。ワシントン廃棄の上申書作成で先頭に立つ。1934(昭和9)年11月15日 戦艦「山城」艦長。
1935(昭和10)年11月15日 海軍少将 第1水雷戦隊司令官。1936(昭和11)年12月1日 第8戦隊司令官。
1937(昭和12)年11月15日 水雷学校長。1938(昭和13)年11月15日 第3戦隊司令官。
1939(昭和14)年11月15日 海軍中将。1940(昭和15)年11月1日 海軍大学校校長。
1941(昭和16)年4月10日 第1航空艦隊司令長官。1941(昭和16)年12月8日 ハワイ海戦(真珠湾攻撃)。
1942(昭和17)年6月5日~7日 ミッドウエイ海戦。7月14日 第3艦隊司令長官。8月23日~25日第二次ソロモン海戦。10月26日南太平洋海戦。11月11日 佐世保鎮守府司令長官。
1943(昭和18)年6月21日 呉鎮守府司令長官。10月20日 第1艦隊司令長官。
1943(昭和18)年 南西方面艦隊司令長官。1944(昭和19)年3月4日 中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14航空艦隊司令長官。 サイパン島へ着任。
1943(昭和18)年6月15日 「フォーリンジャー」作戦 アメリカ軍、サイパン上陸。7月8日 サイパン島で参謀長・矢野秀雄少将の介錯で自刃。7月9日 ターナー中将、サイパン占領を宣言。7月18日 大本営、サイパン玉砕を発表。死後、海軍大将に昇進 。
南雲忠一は六人兄妹の末っ子で次男である。長女のこまと次女のふみは早く他家に嫁し、三女は生まれると間もなく死亡したといわれている。
長男徳一郎は生涯無為に暮らし、昭和14年、隠居して、家督を忠一に譲っている。
南雲家の向かいにある本間家の主人は「徳一郎さんは、戦争前、よくお茶を飲みに遊びに来た。しばらく世間話をしたかと思うと、一旦帰り、またお茶を飲みに来た」と戦後語っている。悪い人間ではないが働く気がしないのである。
忠一のすぐ上の姉、きくは幼い時から知恵が遅れ、生涯、忠一の世話になり、昭和17年3月、台山の家で死亡している。そして、その一月前に徳一郎も世を去っている。
忠一の母、志んは、昭和5年8月7日、81歳で世を去った。忠一は母親孝行で、昭和3年、鎌倉市扇ヶ谷に借家を借りて、母を引き取っている。
また、忠一は駅の陸橋を母を背負って越えた事もある。海軍中佐の頃である。父、周蔵は大正14年に没している。忠一自身は、妻りきとの間に、娘一人、男子五人の子供をもうけている。
<南雲忠一海軍大将プロフィル>
1887(明治20)年3月25日生れ。山形県米沢市信夫町出身。父、南雲周蔵、母、南雲志ん。二男で6人兄弟の末子。終生米沢弁が抜けなかった。
1908(明治41)年 海軍兵学校(36期)卒 卒業成績191人中5番。
1910(明治43)年1月海軍少尉、砲術学校。
1911(明治44)年12月海軍中尉、水雷学校。
1914(大正3年)12月海軍大尉。
1920(大正9)年12月 海軍大学校甲種(優等)卒、海軍少佐。軍令部出仕。1923(大正12)年11月 海軍大学校教官。
1924(大正13)年12月 海軍中佐。
1929(昭和4)年11月 海軍大佐、軽巡「那珂」艦長。1930(昭和5)年11月1日 第11駆逐隊司令。
1931(昭和6)年10月10日 軍令部第2課長。1933(昭和8)年11月15日 重巡「高雄」艦長。ワシントン廃棄の上申書作成で先頭に立つ。1934(昭和9)年11月15日 戦艦「山城」艦長。
1935(昭和10)年11月15日 海軍少将 第1水雷戦隊司令官。1936(昭和11)年12月1日 第8戦隊司令官。
1937(昭和12)年11月15日 水雷学校長。1938(昭和13)年11月15日 第3戦隊司令官。
1939(昭和14)年11月15日 海軍中将。1940(昭和15)年11月1日 海軍大学校校長。
1941(昭和16)年4月10日 第1航空艦隊司令長官。1941(昭和16)年12月8日 ハワイ海戦(真珠湾攻撃)。
1942(昭和17)年6月5日~7日 ミッドウエイ海戦。7月14日 第3艦隊司令長官。8月23日~25日第二次ソロモン海戦。10月26日南太平洋海戦。11月11日 佐世保鎮守府司令長官。
1943(昭和18)年6月21日 呉鎮守府司令長官。10月20日 第1艦隊司令長官。
1943(昭和18)年 南西方面艦隊司令長官。1944(昭和19)年3月4日 中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14航空艦隊司令長官。 サイパン島へ着任。
1943(昭和18)年6月15日 「フォーリンジャー」作戦 アメリカ軍、サイパン上陸。7月8日 サイパン島で参謀長・矢野秀雄少将の介錯で自刃。7月9日 ターナー中将、サイパン占領を宣言。7月18日 大本営、サイパン玉砕を発表。死後、海軍大将に昇進 。