軍令部の海軍省に対する態度は、俄かに強硬になった。軍令部長が皇族であることを背景に、高橋軍令部次長は大角岑生海軍大臣に圧力をかけてきた。
昭和8年3月、軍令部長から海軍大臣宛てに「軍令部令及び省部事務互渉規定改正」の商議が廻ってきた。その要求の内容は次のようなものであった。
一、統帥に関する事項の起案、伝達等の権限は、すべて軍令部に移管すること。
二、警備、実施部隊の教育訓練、編制、兵科、将官及び参謀の人事の起案権を軍令部に移管すること。
以上のものであった。旧来の海軍の伝統や習慣を無視し、天皇直属をよいことに、一切の権限を軍令部に集約しようとした、部内の叛乱にも匹敵する傍若無人の要求だった。
「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、当時、海軍省軍務局で制度改革に関する業務は河野千万城中佐の主務であった。
だが、内容の重大さを読み取った、軍令部第一課長・井上成美大佐が、軍令部との折衝役を買って出た。海軍部内で叛乱ともいえる不埒なことがまかり通ってしまうことは断じて許されないという気迫だった。
軍令部からは毎日のように「省部事務互渉規定改正案」を起草して捺印せよと使者が押しかけてきた。
井上が起草して上級者に廻さなければ改正案は陽の目を見ない。判を押せということは、起草せよと迫るに等しかった。
押しかけてくる使者は毎日変わらない。「米沢の海軍」のひとりである軍令部第二課長・南雲忠一大佐だった。
南雲忠一大佐は海軍兵学校36期、井上大佐の1期先輩である。艦隊経験が長く、実戦派であった。
そのため、前線から遠い建物の中で事務をとる士官たちを頭から軽蔑していた。判例を盾にしてしか行動できない輩として、南雲たちは「諸例則ども!」と呼んでいた。
その南雲大佐が海軍省軍務局第一課長・井上大佐の部屋に日参した。
靴音も荒く飛び込んでくると、井上の机の前に椅子を引き寄せて対峙した。せりふは毎回「井上!早く判を押さんか!」だった。
しかし、いくら南雲大佐が険しい表情で声も荒げて、時には机を叩いて迫っても、井上大佐は南雲大佐を静かに見据えるだけだった。
苛立った南雲大佐が、立ち上がって机をひっくり返さそうと下日もあったが、井上大佐は机から離れて腕を組んだまま言葉一つ発しようとはしなかった。
容易に井上大佐の信念が曲げられないと知った南雲大佐は、遂に「おいっ、井上!貴様みたいな、物分りの悪い奴は殺してやるっ!」と詰め寄った。
山形なまりまるだしの言葉だけに迫力があり、室内の課員たちは思わず一瞬息を詰めた。
井上大佐は椅子から立ち上がろうともせず、「殺されるのが怖くてこの職務がつとまるか。いつも覚悟しておる。脅しにもならんことを口にするな!」と言った。
さらに「海軍大臣に反旗をひるがえすようなことはつつしめ!」と怒鳴り返した。そして静かに机の引き出しをあけると遺書を取り出した。
さすがの南雲大佐も井上大佐の捨て身の態度に大きくたじろいだ。井上は「南雲!よく聞け、おれを殺したとしても、おれの精神は曲げられないぞ」と浴びせかけた。
井上大佐に対する非難攻撃は日に日に増していった。ある日、軍令部長・伏見宮邸で恒例の園遊会が開催された。
官邸の庭園は江戸時代から残された見事な庭園であった。井上大佐も招かれて、出席した。宴も終わりに近づき、退席しようとした井上大佐は、「おい、井上!」と呼び止められた。
南雲大佐であった。かなり酒に酔っているらしかった。「この腰抜け奴、貴様はいつまで反対を続ける気か。戦争がこわいのか、何の為に海軍に入ったのだ」と井上大佐の前に立ちふさがって罵倒し始めた。
場所柄もあり、とりあわずに立ち去ろうとする井上大佐に「井上の馬鹿!貴様なんか殺すのは何でもないんだぞ。短刀で脇腹をざくっとやれば、貴様なんかそれっきりだ」そこには南雲大佐の激しい殺気が感じられた。
背を向けて立ち去る井上大佐の背に、さらに南雲大佐の罵声が飛んだ。「腰抜け!いくじなし!死ね!」
「米沢海軍」の総帥・山下源太郎の遺志を継ぎ、天皇直属の軍令部の統帥権を確立し、強い海軍をつくろうとする南雲大佐の意思の激しさをさまざまと見せ付けられたのだった。
しかしこれは南雲大佐個人の意思ではなく軍令部全体の意思であった。
昭和8年3月、軍令部長から海軍大臣宛てに「軍令部令及び省部事務互渉規定改正」の商議が廻ってきた。その要求の内容は次のようなものであった。
一、統帥に関する事項の起案、伝達等の権限は、すべて軍令部に移管すること。
二、警備、実施部隊の教育訓練、編制、兵科、将官及び参謀の人事の起案権を軍令部に移管すること。
以上のものであった。旧来の海軍の伝統や習慣を無視し、天皇直属をよいことに、一切の権限を軍令部に集約しようとした、部内の叛乱にも匹敵する傍若無人の要求だった。
「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、当時、海軍省軍務局で制度改革に関する業務は河野千万城中佐の主務であった。
だが、内容の重大さを読み取った、軍令部第一課長・井上成美大佐が、軍令部との折衝役を買って出た。海軍部内で叛乱ともいえる不埒なことがまかり通ってしまうことは断じて許されないという気迫だった。
軍令部からは毎日のように「省部事務互渉規定改正案」を起草して捺印せよと使者が押しかけてきた。
井上が起草して上級者に廻さなければ改正案は陽の目を見ない。判を押せということは、起草せよと迫るに等しかった。
押しかけてくる使者は毎日変わらない。「米沢の海軍」のひとりである軍令部第二課長・南雲忠一大佐だった。
南雲忠一大佐は海軍兵学校36期、井上大佐の1期先輩である。艦隊経験が長く、実戦派であった。
そのため、前線から遠い建物の中で事務をとる士官たちを頭から軽蔑していた。判例を盾にしてしか行動できない輩として、南雲たちは「諸例則ども!」と呼んでいた。
その南雲大佐が海軍省軍務局第一課長・井上大佐の部屋に日参した。
靴音も荒く飛び込んでくると、井上の机の前に椅子を引き寄せて対峙した。せりふは毎回「井上!早く判を押さんか!」だった。
しかし、いくら南雲大佐が険しい表情で声も荒げて、時には机を叩いて迫っても、井上大佐は南雲大佐を静かに見据えるだけだった。
苛立った南雲大佐が、立ち上がって机をひっくり返さそうと下日もあったが、井上大佐は机から離れて腕を組んだまま言葉一つ発しようとはしなかった。
容易に井上大佐の信念が曲げられないと知った南雲大佐は、遂に「おいっ、井上!貴様みたいな、物分りの悪い奴は殺してやるっ!」と詰め寄った。
山形なまりまるだしの言葉だけに迫力があり、室内の課員たちは思わず一瞬息を詰めた。
井上大佐は椅子から立ち上がろうともせず、「殺されるのが怖くてこの職務がつとまるか。いつも覚悟しておる。脅しにもならんことを口にするな!」と言った。
さらに「海軍大臣に反旗をひるがえすようなことはつつしめ!」と怒鳴り返した。そして静かに机の引き出しをあけると遺書を取り出した。
さすがの南雲大佐も井上大佐の捨て身の態度に大きくたじろいだ。井上は「南雲!よく聞け、おれを殺したとしても、おれの精神は曲げられないぞ」と浴びせかけた。
井上大佐に対する非難攻撃は日に日に増していった。ある日、軍令部長・伏見宮邸で恒例の園遊会が開催された。
官邸の庭園は江戸時代から残された見事な庭園であった。井上大佐も招かれて、出席した。宴も終わりに近づき、退席しようとした井上大佐は、「おい、井上!」と呼び止められた。
南雲大佐であった。かなり酒に酔っているらしかった。「この腰抜け奴、貴様はいつまで反対を続ける気か。戦争がこわいのか、何の為に海軍に入ったのだ」と井上大佐の前に立ちふさがって罵倒し始めた。
場所柄もあり、とりあわずに立ち去ろうとする井上大佐に「井上の馬鹿!貴様なんか殺すのは何でもないんだぞ。短刀で脇腹をざくっとやれば、貴様なんかそれっきりだ」そこには南雲大佐の激しい殺気が感じられた。
背を向けて立ち去る井上大佐の背に、さらに南雲大佐の罵声が飛んだ。「腰抜け!いくじなし!死ね!」
「米沢海軍」の総帥・山下源太郎の遺志を継ぎ、天皇直属の軍令部の統帥権を確立し、強い海軍をつくろうとする南雲大佐の意思の激しさをさまざまと見せ付けられたのだった。
しかしこれは南雲大佐個人の意思ではなく軍令部全体の意思であった。