石原大佐ら中堅幕僚は、政治を軍部主導で動かそうとしていたので、宇垣大将の内閣が成立すれば、軍部に対して抑圧的な政権になることは明白だったので、それを阻止せねばならなかったのだ。
では、冷徹な近代的軍人で識見もあり、合理主義でもある、当時の陸軍次官・梅津美治郎中将の宇垣内閣流産時の動きはどのようなものだったか。
それについて、当時、陸軍省人事局課員だった額田担(ぬかた・ひろし)中佐(岡山・陸士二九・陸大四〇・陸軍省人事局高級課員・人事局補任課長・歩兵大佐・独立歩兵第一一連隊長・陸軍士官学校生徒隊長・少将・参謀本部総務部長・参謀本部第三部長・兼大本営航空保安長官・陸軍省人事局長・中将・終戦・戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘留・千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会理事長・昭和五十一年死去・享年八十一歳・著書「陸軍省人事局長の回想」)は次の様に回想している。
宇垣内閣流産直後、宇垣翁の甥で実業家、林庸夫氏が深夜密かに私を訪ね、「梅津という仁はやはり明哲保身の人か」と尋ねられた。
私は返答に窮した。しかし後で、左様に観る人もあるのだろうと感じたこともある。梅津次官の識見と威重とを以てして、何故あの不穏当なる省内の空気を抑えなかったのであろう。或いは抑え得なかったのか? 今となっては私には全く不可解である。
ここでいう不穏当な省内の空気とは、梅津次官と陸軍士官学校同期でかつ同郷の親友、憲兵司令官・中島今朝吾(なかしま・けさご)中将(大分・陸士一五・陸大二五・フランス陸軍大学校卒・陸軍大学校兵学教官・砲兵大佐・野砲兵第七連隊長・陸軍大学校兵学教官・少将・舞鶴要塞司令官・陸軍習志野学校初代校長・中将・憲兵司令官・第一六師団長兼中部防衛司令官・南京攻略戦・南京占領・第四軍司令官・予備役・皇国職域勤労奉公隊総裁・終戦・昭和二十年十月肝硬変と尿毒症で死去・享年六十四歳)を含む異常なる政治介入。
異常なる政治介入とは、簡略に述べると、参謀本部第一部長心得・石原莞爾大佐は、自身の属する統制派と参謀本部を主導し、陸軍首脳部を突き上げ、宇垣大将の組閣を阻止したことである。
参謀本部第一部長心得・石原大佐は陸軍大臣・寺内寿一大将を説得し、宇垣大将に対して、自主的に大命を拝辞させるように企図した。
参謀本部第一部長心得・石原大佐の意見具申で、陸軍大臣・寺内寿一大将は、憲兵司令官・中島今朝吾中将に「寺内大将からの命令として、宇垣大将が拝辞するよう説得せよ」と命令した。
昭和十二年一月二十四日夜、宇垣大将が組閣の大命を受けようと、車で皇居に参内する途中、憲兵司令官・中島今朝吾中将が宇垣大将の車を止め、車に乗り込み説得した。だが、宇垣大将は、これを無視して、皇居に参内し、大命を拝受した。
憲兵司令官・中島今朝吾中将は、宇垣大将の組閣参謀であった次の二人にも電話して、宇垣への協力を止めるよう進言している。
松井石根(まつい・いわね)大将(愛知・陸士九次席・陸大一八首席・上海駐箚武官・歩兵大佐・歩兵第三九連隊長・浦塩派遣軍情報参謀・ハルピン特務機関長・少将・歩兵第三五旅団長・参謀本部第二部長・中将・第一一師団長・ジュネーヴ会議全権随員・台湾軍司令官・大将・予備役・上海派遣軍司令官・中支那方面軍司令官・内閣参議・終戦・昭和二十三年B級戦犯で死刑・享年七十歳・勲一等旭日大綬章・功一級)。
衆議院議員・船田中(ふなだ・なか・栃木・東京帝国大学法科大学英法科・内務省・東京市助役・東京市長代理・衆議院議員・法制局長官・終戦・衆議院議員・防衛庁長官・自民党安全保障調査会長・衆議院議長・自民党副総裁・作新学院理事長・昭和五十四年死去・享年八十三歳・従二位・旭日桐花大綬章)。
結局、参謀本部第一部長心得・石原大佐らの工作により、陸軍首脳の中には誰一人宇垣内閣の陸軍大臣を引き受ける者がいなかったので、宇垣大将は、組閣を断念した。
当時、陸軍省人事局課員だった額田担元中将は、次の様に回想している。
当時、陸軍内で、参謀本部第一部長心得・石原大佐の鬼才も制し、陸軍省内の空気を抑え得る人は梅津美治郎陸軍次官を措いて他にはなかったであろうと考えられる。
そして、大局的視野のある梅津次官に、宇垣内閣の適当であることは、当然すぎるほど分かっていた筈ではなかったか。これを潰して後にできた林内閣の無様(ぶざま)を視るまでもない。
では、冷徹な近代的軍人で識見もあり、合理主義でもある、当時の陸軍次官・梅津美治郎中将の宇垣内閣流産時の動きはどのようなものだったか。
それについて、当時、陸軍省人事局課員だった額田担(ぬかた・ひろし)中佐(岡山・陸士二九・陸大四〇・陸軍省人事局高級課員・人事局補任課長・歩兵大佐・独立歩兵第一一連隊長・陸軍士官学校生徒隊長・少将・参謀本部総務部長・参謀本部第三部長・兼大本営航空保安長官・陸軍省人事局長・中将・終戦・戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘留・千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会理事長・昭和五十一年死去・享年八十一歳・著書「陸軍省人事局長の回想」)は次の様に回想している。
宇垣内閣流産直後、宇垣翁の甥で実業家、林庸夫氏が深夜密かに私を訪ね、「梅津という仁はやはり明哲保身の人か」と尋ねられた。
私は返答に窮した。しかし後で、左様に観る人もあるのだろうと感じたこともある。梅津次官の識見と威重とを以てして、何故あの不穏当なる省内の空気を抑えなかったのであろう。或いは抑え得なかったのか? 今となっては私には全く不可解である。
ここでいう不穏当な省内の空気とは、梅津次官と陸軍士官学校同期でかつ同郷の親友、憲兵司令官・中島今朝吾(なかしま・けさご)中将(大分・陸士一五・陸大二五・フランス陸軍大学校卒・陸軍大学校兵学教官・砲兵大佐・野砲兵第七連隊長・陸軍大学校兵学教官・少将・舞鶴要塞司令官・陸軍習志野学校初代校長・中将・憲兵司令官・第一六師団長兼中部防衛司令官・南京攻略戦・南京占領・第四軍司令官・予備役・皇国職域勤労奉公隊総裁・終戦・昭和二十年十月肝硬変と尿毒症で死去・享年六十四歳)を含む異常なる政治介入。
異常なる政治介入とは、簡略に述べると、参謀本部第一部長心得・石原莞爾大佐は、自身の属する統制派と参謀本部を主導し、陸軍首脳部を突き上げ、宇垣大将の組閣を阻止したことである。
参謀本部第一部長心得・石原大佐は陸軍大臣・寺内寿一大将を説得し、宇垣大将に対して、自主的に大命を拝辞させるように企図した。
参謀本部第一部長心得・石原大佐の意見具申で、陸軍大臣・寺内寿一大将は、憲兵司令官・中島今朝吾中将に「寺内大将からの命令として、宇垣大将が拝辞するよう説得せよ」と命令した。
昭和十二年一月二十四日夜、宇垣大将が組閣の大命を受けようと、車で皇居に参内する途中、憲兵司令官・中島今朝吾中将が宇垣大将の車を止め、車に乗り込み説得した。だが、宇垣大将は、これを無視して、皇居に参内し、大命を拝受した。
憲兵司令官・中島今朝吾中将は、宇垣大将の組閣参謀であった次の二人にも電話して、宇垣への協力を止めるよう進言している。
松井石根(まつい・いわね)大将(愛知・陸士九次席・陸大一八首席・上海駐箚武官・歩兵大佐・歩兵第三九連隊長・浦塩派遣軍情報参謀・ハルピン特務機関長・少将・歩兵第三五旅団長・参謀本部第二部長・中将・第一一師団長・ジュネーヴ会議全権随員・台湾軍司令官・大将・予備役・上海派遣軍司令官・中支那方面軍司令官・内閣参議・終戦・昭和二十三年B級戦犯で死刑・享年七十歳・勲一等旭日大綬章・功一級)。
衆議院議員・船田中(ふなだ・なか・栃木・東京帝国大学法科大学英法科・内務省・東京市助役・東京市長代理・衆議院議員・法制局長官・終戦・衆議院議員・防衛庁長官・自民党安全保障調査会長・衆議院議長・自民党副総裁・作新学院理事長・昭和五十四年死去・享年八十三歳・従二位・旭日桐花大綬章)。
結局、参謀本部第一部長心得・石原大佐らの工作により、陸軍首脳の中には誰一人宇垣内閣の陸軍大臣を引き受ける者がいなかったので、宇垣大将は、組閣を断念した。
当時、陸軍省人事局課員だった額田担元中将は、次の様に回想している。
当時、陸軍内で、参謀本部第一部長心得・石原大佐の鬼才も制し、陸軍省内の空気を抑え得る人は梅津美治郎陸軍次官を措いて他にはなかったであろうと考えられる。
そして、大局的視野のある梅津次官に、宇垣内閣の適当であることは、当然すぎるほど分かっていた筈ではなかったか。これを潰して後にできた林内閣の無様(ぶざま)を視るまでもない。