たまたま昭和十一年、二・二六事件が起こり、その後の粛軍対策の第一にこの徽章が取り上げられた。
この処置は、二・二六事件を契機に塾柿が落ちたようなものであるが、それでも若干の波紋がないでもなかった。
徽章授与条項を学校令から削り、徽章の制式を求める軍令を廃止することが官報に登載せらるるや、いちはやく在郷軍人会から質問の文書が届けられた。
その要旨は、徽章授与条項を削られたのは、今後の卒業者に対するものであるから、すでにもらっている者は、従来通り佩用しても差し支えないのではないか、というのである。
私は軍令の改正(学校令)及び軍令の廃止(徽章の制式)案を起草する時、当然、既授与者も佩用を取止めるものと考えていたから、この質問文書を見た時には、実に意外であり馬鹿らしくもあった。
現に金鵄勲章の廃止された現在、佩用している者は、一人もいないではないか。とはいっても、文書で来た以上文書で回答しなければならない。
仕方がないから、陸軍省副官命で、「佩用せざる儀と承知相成度」という意味の回答分を出した。この回答文は局長決済で、海軍次官の所まで行っていないと思う。
余談になるが、この徽章が廃止になった時、これを夫人の帯留めにしたとか、しないとかの噂が耳に入ってきた。
これも余談になるが、当時、私も若かったから、この徽章と共に参謀飾緒も廃止せよと主張した。
これは通らなかったが、その直後、杭州湾上陸軍参謀になって、廃止しなくてよかったと、身を持って体験した。
当時、上海戦線で将校が狙撃の目標にされたので、杭州湾上陸軍は、軍司令官以下全員が兵の服を着た。無論階級章は残したが、参謀飾緒は着けなかった。
敵を南京に向かって追撃する時、太湖西南端に諸隊が殺到するので、交通整理のため参謀を派遣した。
ところがその参謀は飾緒を着けていないから、先を争う諸隊は言うことをきかない。たまたま大本営参謀が戦線視察に来ていたので、軍参謀の側に立ってもらうことにした。
参謀飾緒を着けた将校が立っているだけで、諸隊は交通整理に従うようになったが、参謀飾緒の効果を痛感するとともに、飾緒廃止の意思を出した軽挙を深く反省した次第である。
以上が、当時、軍事課課員だった、山崎正男元少将の回想である。
昭和十二年一月二十三日に広田弘毅内閣が総辞職後、一月二十五日に宇垣一成(うがき・かずしげ)大将(岡山・陸士一・一一番・陸大一四・三番恩賜・ドイツ駐在・教育本部総務部第一課長・歩兵大佐・軍務局軍事課長・歩兵第六連隊長・軍務局軍事課長・少将・歩兵学校長・参謀本部第一部長・参謀本部総務部長・陸軍大学校長・中将・第一〇師団長・教育総監部本部長・陸軍次官・陸軍大臣・大将・朝鮮総督臨時代理・陸軍大臣・予備役・朝鮮総督・内閣参議・外務大臣・兼拓務大臣・拓殖大学学長・終戦・参議院議員・昭和三十一年死去・享年八十七歳・正二位・勲一等旭日大綬章・功四級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)に組閣の大命が下った。
元老・西園寺公望(さいおんじ・きんもち・京都・右大臣徳大寺公純の次男・右近衛権中将西園寺師季の養子・正三位・右近衛権中将・官軍参与・明治維新・新潟府知事・ソルボンヌ大学・正三位・東洋自由新聞社長・勲三等旭日中綬章・参事院議官・侯爵・駐オーストリア=ハンガリー帝国公使・駐ドイツ帝国公使・賞勲局総裁・貴族院副議長・従二位・枢密顧問官・文部大臣・勲一等瑞宝章・外務大臣兼文部大臣・渡仏・文部大臣・正二位・枢密院議長・内閣総理大臣臨時代理・立憲政友会総裁・内閣総理大臣・勲一等旭日桐花大綬章・内閣総理大臣<第二次>・大勲位菊花大綬章・パリ講和会議全権・公爵・大勲位菊花章頸飾・薨去・享年九十歳・国葬・従一位・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は、軍部の暴走を抑止できる宇垣大将に期待して、首相推薦の奏上を行ったのだ。これにより、大命が下った。
だが、当時参謀本部第一部長心得だった石原莞爾(いしわら・かんじ)大佐(山形・陸士二一・六番・陸大三〇次席・関東軍作戦課長・歩兵大佐・歩兵第四連隊長・参謀本部作戦課長・参謀本部戦争指導課長・少将・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・待命・立命館大学講師・予備役・終戦・山形県に転居・東京裁判酒田出張法廷に証人として出廷・昭和二十四年肺水腫と膀胱がんで病死・享年六十歳・勲一等瑞宝章・功三級)など陸軍中堅幕僚は、宇垣大将の組閣を阻止すべく動いた。
この処置は、二・二六事件を契機に塾柿が落ちたようなものであるが、それでも若干の波紋がないでもなかった。
徽章授与条項を学校令から削り、徽章の制式を求める軍令を廃止することが官報に登載せらるるや、いちはやく在郷軍人会から質問の文書が届けられた。
その要旨は、徽章授与条項を削られたのは、今後の卒業者に対するものであるから、すでにもらっている者は、従来通り佩用しても差し支えないのではないか、というのである。
私は軍令の改正(学校令)及び軍令の廃止(徽章の制式)案を起草する時、当然、既授与者も佩用を取止めるものと考えていたから、この質問文書を見た時には、実に意外であり馬鹿らしくもあった。
現に金鵄勲章の廃止された現在、佩用している者は、一人もいないではないか。とはいっても、文書で来た以上文書で回答しなければならない。
仕方がないから、陸軍省副官命で、「佩用せざる儀と承知相成度」という意味の回答分を出した。この回答文は局長決済で、海軍次官の所まで行っていないと思う。
余談になるが、この徽章が廃止になった時、これを夫人の帯留めにしたとか、しないとかの噂が耳に入ってきた。
これも余談になるが、当時、私も若かったから、この徽章と共に参謀飾緒も廃止せよと主張した。
これは通らなかったが、その直後、杭州湾上陸軍参謀になって、廃止しなくてよかったと、身を持って体験した。
当時、上海戦線で将校が狙撃の目標にされたので、杭州湾上陸軍は、軍司令官以下全員が兵の服を着た。無論階級章は残したが、参謀飾緒は着けなかった。
敵を南京に向かって追撃する時、太湖西南端に諸隊が殺到するので、交通整理のため参謀を派遣した。
ところがその参謀は飾緒を着けていないから、先を争う諸隊は言うことをきかない。たまたま大本営参謀が戦線視察に来ていたので、軍参謀の側に立ってもらうことにした。
参謀飾緒を着けた将校が立っているだけで、諸隊は交通整理に従うようになったが、参謀飾緒の効果を痛感するとともに、飾緒廃止の意思を出した軽挙を深く反省した次第である。
以上が、当時、軍事課課員だった、山崎正男元少将の回想である。
昭和十二年一月二十三日に広田弘毅内閣が総辞職後、一月二十五日に宇垣一成(うがき・かずしげ)大将(岡山・陸士一・一一番・陸大一四・三番恩賜・ドイツ駐在・教育本部総務部第一課長・歩兵大佐・軍務局軍事課長・歩兵第六連隊長・軍務局軍事課長・少将・歩兵学校長・参謀本部第一部長・参謀本部総務部長・陸軍大学校長・中将・第一〇師団長・教育総監部本部長・陸軍次官・陸軍大臣・大将・朝鮮総督臨時代理・陸軍大臣・予備役・朝鮮総督・内閣参議・外務大臣・兼拓務大臣・拓殖大学学長・終戦・参議院議員・昭和三十一年死去・享年八十七歳・正二位・勲一等旭日大綬章・功四級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)に組閣の大命が下った。
元老・西園寺公望(さいおんじ・きんもち・京都・右大臣徳大寺公純の次男・右近衛権中将西園寺師季の養子・正三位・右近衛権中将・官軍参与・明治維新・新潟府知事・ソルボンヌ大学・正三位・東洋自由新聞社長・勲三等旭日中綬章・参事院議官・侯爵・駐オーストリア=ハンガリー帝国公使・駐ドイツ帝国公使・賞勲局総裁・貴族院副議長・従二位・枢密顧問官・文部大臣・勲一等瑞宝章・外務大臣兼文部大臣・渡仏・文部大臣・正二位・枢密院議長・内閣総理大臣臨時代理・立憲政友会総裁・内閣総理大臣・勲一等旭日桐花大綬章・内閣総理大臣<第二次>・大勲位菊花大綬章・パリ講和会議全権・公爵・大勲位菊花章頸飾・薨去・享年九十歳・国葬・従一位・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は、軍部の暴走を抑止できる宇垣大将に期待して、首相推薦の奏上を行ったのだ。これにより、大命が下った。
だが、当時参謀本部第一部長心得だった石原莞爾(いしわら・かんじ)大佐(山形・陸士二一・六番・陸大三〇次席・関東軍作戦課長・歩兵大佐・歩兵第四連隊長・参謀本部作戦課長・参謀本部戦争指導課長・少将・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・待命・立命館大学講師・予備役・終戦・山形県に転居・東京裁判酒田出張法廷に証人として出廷・昭和二十四年肺水腫と膀胱がんで病死・享年六十歳・勲一等瑞宝章・功三級)など陸軍中堅幕僚は、宇垣大将の組閣を阻止すべく動いた。