戦艦比叡の航海中満州国皇帝に供覧のため、合戦準備、戦闘訓練を実施した際、皇帝のお側用人が、あてがわれていた居室の舷窓を閉めさせないと、甲板士官が困って井上艦長へ報告に来た。
井上艦長は気色ばんで「航海長、両舷停止」「甲板士官、左舷に縄梯子用意」
訝る艦橋上の面々に、重ねて井上艦長の声が飛んだ。
「軍艦比叡で艦長の命令を聞かない者は一人もいない。お茶坊主をすぐどこにでも退艦させろ」
艦は黄海の真ん中で漂泊を始める。これには皇帝の首席随員も驚き、艦橋まで老体を運びやっと事なきを得た。
戦後、井上はこのことに話が及ぶと「若かったですからね」と苦笑したと言われている。
「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、井上は「海軍の思い出」の中で次の様に述べている。
私が「比叡」の艦長をやめて横須賀の参謀長で、水交社で晩飯を食っている時、「比叡」は陛下のお召し艦になるんで乗組員の上陸を禁じてあると聞いた。ところが、現艦長は水交社へ来てメシを食っている。
私が
「お前の艦は上陸停止をしているのではないか、上陸停止の命令は誰が出したんだ」
ときくと
「艦長が出しました」
と言う。
「艦長が出した命令を艦長が破っていいのか」
と詰問した。そういう艦長がいました。
後で聞くと、その艦長室の前に兵隊で脱糞した奴がいるっていう話でした。
それから、ある大将まで行った人ですが、「日向」の艦長でね。艦長が上甲板へ出てくると煙草盆のまわりに輪になって煙草を吸っている士官室の士官たちが、さっさと下へみんな入ってしまう。艦長は下りたか、もう下りました、と聞くと、上に上がってくる。
その艦長が最後にどこかに転任で艦を去ったとき、兵隊が塩をまいて清めたというのです。そんなことで戦争ができるもんじゃない。ところがそういうのがだんだん目に付くんです。
以上のように井上は「比叡」の想い出を語っている。
「井上成美」(新潮文庫)によると、昭和10年11月、井上は海軍少将に昇任し、横須賀鎮守府参謀長に就任した。
井上が参謀長に就任した時期は、陸軍、海軍の青年将校らの国家改造運動が盛んで不穏な空気が横行していた。
昭和10年8月12日、軍務局長・永田鉄山陸軍少将は相澤三郎陸軍中佐により軍刀で斬殺された。また、昭和11年2月26日には2.26事件が起きている。
昭和11年の正月を井上少将は横須賀鎮守府裏の参謀長官舎で迎えた。井上少将はやもめ暮らしの四年目で、家族もいない、人もあまり来ない。お茶の水高女四年生の娘の靚子が休みの時だけ泊まっていく。家事は住みこみの女中に委せてあった。
官舎の真向いに、横須賀海軍工廠総務部長・山下知彦海軍大佐の官舎があった。来客が多く、賑やかであった。
年が明けて、女中が井上少将に妙な質問をした「お向かいの山下さんのお宅へ、夜分よく集まってくる方たち、何をしにお見えになるんでございますか」
井上少将は、週二、三回、私服の海軍士官らしき若者が大勢集まっているのを気づいていた。
井上少将は女中に、あれは山下さんが若い連中に時局の話など聞かせる修養会だと答え、その上で聞き返した。
「何故そんなことを私に訊ねるのかね」
女中は
「あの人たち、夜おそく帰りぎわに、いつもうちの門のところで立小便をするんです。海軍さんにしてはずいぶん品の無い失礼な方々と思って腹を立てているんです」
山下知彦海軍大佐は井上少将より兵学校三期下の、大西瀧治郎と同じクラスで、故山下源太郎大将の養子で、山下源太郎大将の爵位を継いだ男爵だった。
井上艦長は気色ばんで「航海長、両舷停止」「甲板士官、左舷に縄梯子用意」
訝る艦橋上の面々に、重ねて井上艦長の声が飛んだ。
「軍艦比叡で艦長の命令を聞かない者は一人もいない。お茶坊主をすぐどこにでも退艦させろ」
艦は黄海の真ん中で漂泊を始める。これには皇帝の首席随員も驚き、艦橋まで老体を運びやっと事なきを得た。
戦後、井上はこのことに話が及ぶと「若かったですからね」と苦笑したと言われている。
「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、井上は「海軍の思い出」の中で次の様に述べている。
私が「比叡」の艦長をやめて横須賀の参謀長で、水交社で晩飯を食っている時、「比叡」は陛下のお召し艦になるんで乗組員の上陸を禁じてあると聞いた。ところが、現艦長は水交社へ来てメシを食っている。
私が
「お前の艦は上陸停止をしているのではないか、上陸停止の命令は誰が出したんだ」
ときくと
「艦長が出しました」
と言う。
「艦長が出した命令を艦長が破っていいのか」
と詰問した。そういう艦長がいました。
後で聞くと、その艦長室の前に兵隊で脱糞した奴がいるっていう話でした。
それから、ある大将まで行った人ですが、「日向」の艦長でね。艦長が上甲板へ出てくると煙草盆のまわりに輪になって煙草を吸っている士官室の士官たちが、さっさと下へみんな入ってしまう。艦長は下りたか、もう下りました、と聞くと、上に上がってくる。
その艦長が最後にどこかに転任で艦を去ったとき、兵隊が塩をまいて清めたというのです。そんなことで戦争ができるもんじゃない。ところがそういうのがだんだん目に付くんです。
以上のように井上は「比叡」の想い出を語っている。
「井上成美」(新潮文庫)によると、昭和10年11月、井上は海軍少将に昇任し、横須賀鎮守府参謀長に就任した。
井上が参謀長に就任した時期は、陸軍、海軍の青年将校らの国家改造運動が盛んで不穏な空気が横行していた。
昭和10年8月12日、軍務局長・永田鉄山陸軍少将は相澤三郎陸軍中佐により軍刀で斬殺された。また、昭和11年2月26日には2.26事件が起きている。
昭和11年の正月を井上少将は横須賀鎮守府裏の参謀長官舎で迎えた。井上少将はやもめ暮らしの四年目で、家族もいない、人もあまり来ない。お茶の水高女四年生の娘の靚子が休みの時だけ泊まっていく。家事は住みこみの女中に委せてあった。
官舎の真向いに、横須賀海軍工廠総務部長・山下知彦海軍大佐の官舎があった。来客が多く、賑やかであった。
年が明けて、女中が井上少将に妙な質問をした「お向かいの山下さんのお宅へ、夜分よく集まってくる方たち、何をしにお見えになるんでございますか」
井上少将は、週二、三回、私服の海軍士官らしき若者が大勢集まっているのを気づいていた。
井上少将は女中に、あれは山下さんが若い連中に時局の話など聞かせる修養会だと答え、その上で聞き返した。
「何故そんなことを私に訊ねるのかね」
女中は
「あの人たち、夜おそく帰りぎわに、いつもうちの門のところで立小便をするんです。海軍さんにしてはずいぶん品の無い失礼な方々と思って腹を立てているんです」
山下知彦海軍大佐は井上少将より兵学校三期下の、大西瀧治郎と同じクラスで、故山下源太郎大将の養子で、山下源太郎大将の爵位を継いだ男爵だった。