「シンガポールは陥落せり」(青木書店)によると、昭和17年4月8日の朝日新聞に「マレー作戦報告」が掲載された。当時、マレー作戦を行った第二十五軍作戦参謀、辻政信中佐(陸士36首席・陸大43恩賜)が記したものだ。
辻政信中佐は「マレー作戦報告」の中で、マレー作戦に参加した第十八師団長・牟田口廉也中将(陸士22・陸大29)について、次の様に記している(要約)。
マレー作戦も終盤になり、最後のシンガポール攻撃のとき、私(辻参謀)は、牟田口兵団(師団)の司令部を訪ねた。
すると、牟田口兵団長は今から第一線に出るというところで、参謀等が「兵団長が一線に出ては危険であるし、万一のことがあってはかえって兵団の行動に支障を来たすからと、おとめしているが、きかれないから、君とめてくれ」ということなので、私は牟田口兵団長のところへ行き次のように言った。
「閣下が今第一線に進出されるのは適当な時期ではない。閣下の部隊は今全力を尽くして奮戦中であり、突撃を待機しているが、今は敵の集中射撃が熾烈なので薄暮を利用して突撃ということになっております」
さらに「第一線将兵の士気は極めて旺盛ですからどうかご安心ください。それに今、兵団長が第一線に進出されると、部下の連隊長は、突撃時期が延びているので、激励督戦に来られたのかと思って、余計な無理をして強行攻撃をやり、不必要な損害を出すかもしれません。今は不適当です、明朝にしてください」と申し上げた。
すると牟田口兵団長は、司令部の天幕の中に黙然と立って聞いておられたが、ポロリと涙を落とされて、「辻君俺はそんな気持ちで第一線に出るのではない。決して督戦などというケチな考えで一線に出るのではないし、また俺の部下は俺の一線進出を知って督戦に来たなどという、水臭い気持ちや考えを持つものは誰一人おらぬ」
さらに「恐らく今夜部下の連隊は軍旗を先頭に決死の突撃をやるだろう。そうすれば連隊長、大隊長はじめ部隊将兵の多くが戦死するに違いない。俺は部下将兵が戦死する前に、一目会って手を握って、そして立派に戦死させてやりたい。俺の気持ちは皆部下がよく知っていてくれる。喜んで迎えてくれるだろう。俺も安心していける」と言われ、またポロリと戦塵に汚れた顔に涙を流された。私も思わず貰い泣きした。
この上下渾然たる兵団一体の統制と気持ち、この兵団長の部下を思う気持ち、それを知り、兵団長を欣然迎え、莞爾と死地に突入する部隊将兵の意気、私は実に尊い日本独特の統帥だと感じた。これこそ本当の武人の情けであろう。
私は涙が流れてしようがなかったが、悠然と嬉しさが胸に満ち満ちた。もはや言うことはない。「兵団長閣下、第一線に出てやってください!」。兵団長も嬉しそうに頷かれた。
以上のように、辻参謀は牟田口師団長について感動的に記している。当時、朝日新聞を読んだ読者からも、この箇所には、賞賛の声が多かった。
それから二年後の昭和19年3月、インパール作戦が行われた。作戦を指揮したのは第十五軍司令官・牟田口廉也中将で、三個師団を率いてインドに進攻した。
このインパール作戦では、牟田口軍司令官は、部下の幕僚を怒鳴り、督戦どころか、後方から将兵を突撃に激しく追い立て、さらには自分の意に反する隷下の三人の師団長を解任までした。
それは、マレー作戦で辻参謀が感動して朝日新聞に記した「上下渾然たる兵団一体の統制と気持ち」とは、かけ離れた「統率」であった。
<牟田口廉也中将プロフィル>
明治21年10月7日、佐賀県出身。
明治43年5月陸軍士官学校卒(22期)。12月歩兵少尉、歩兵第十三連隊附。
大正2年12月歩兵中尉。
大正6年11月陸軍大学校卒(29期・57名中25位)。
大正9年4月歩兵大尉、参謀本部員。
大正15年3月歩兵少佐。8月近衛歩兵第四連隊大隊長。
昭和2年5月軍務局軍事課員。
昭和4年2月フランス出張。8月参謀本部員。
昭和5年8月歩兵中佐。
昭和8年12月参謀本部総務部庶務課長。
昭和9年3月歩兵大佐。
昭和11年5月支那駐屯歩兵第一連隊長。
昭和13年3月陸軍少将、関東軍司令部附。7月第四軍参謀長。
昭和14年12月予科士官学校長。
昭和15年8月陸軍中将。
昭和16年4月第十八師団長。
昭和18年3月第十五軍司令官。
昭和19年8月参謀本部附、12月予備役。
昭和20年1月召集・予科士官学校長。9月召集解除。12月戦犯容疑で逮捕。
昭和21年9月シンガポール移送。
昭和23年3月釈放・帰国。戦後は東京都調布市で余生を送る。
昭和38年4月および昭和40年2月、国立国会図書館政治史料調査事務局の要請で、盧溝橋事件とインパール作戦の談話を録音。
昭和41年8月2日死去。七十七歳。
辻政信中佐は「マレー作戦報告」の中で、マレー作戦に参加した第十八師団長・牟田口廉也中将(陸士22・陸大29)について、次の様に記している(要約)。
マレー作戦も終盤になり、最後のシンガポール攻撃のとき、私(辻参謀)は、牟田口兵団(師団)の司令部を訪ねた。
すると、牟田口兵団長は今から第一線に出るというところで、参謀等が「兵団長が一線に出ては危険であるし、万一のことがあってはかえって兵団の行動に支障を来たすからと、おとめしているが、きかれないから、君とめてくれ」ということなので、私は牟田口兵団長のところへ行き次のように言った。
「閣下が今第一線に進出されるのは適当な時期ではない。閣下の部隊は今全力を尽くして奮戦中であり、突撃を待機しているが、今は敵の集中射撃が熾烈なので薄暮を利用して突撃ということになっております」
さらに「第一線将兵の士気は極めて旺盛ですからどうかご安心ください。それに今、兵団長が第一線に進出されると、部下の連隊長は、突撃時期が延びているので、激励督戦に来られたのかと思って、余計な無理をして強行攻撃をやり、不必要な損害を出すかもしれません。今は不適当です、明朝にしてください」と申し上げた。
すると牟田口兵団長は、司令部の天幕の中に黙然と立って聞いておられたが、ポロリと涙を落とされて、「辻君俺はそんな気持ちで第一線に出るのではない。決して督戦などというケチな考えで一線に出るのではないし、また俺の部下は俺の一線進出を知って督戦に来たなどという、水臭い気持ちや考えを持つものは誰一人おらぬ」
さらに「恐らく今夜部下の連隊は軍旗を先頭に決死の突撃をやるだろう。そうすれば連隊長、大隊長はじめ部隊将兵の多くが戦死するに違いない。俺は部下将兵が戦死する前に、一目会って手を握って、そして立派に戦死させてやりたい。俺の気持ちは皆部下がよく知っていてくれる。喜んで迎えてくれるだろう。俺も安心していける」と言われ、またポロリと戦塵に汚れた顔に涙を流された。私も思わず貰い泣きした。
この上下渾然たる兵団一体の統制と気持ち、この兵団長の部下を思う気持ち、それを知り、兵団長を欣然迎え、莞爾と死地に突入する部隊将兵の意気、私は実に尊い日本独特の統帥だと感じた。これこそ本当の武人の情けであろう。
私は涙が流れてしようがなかったが、悠然と嬉しさが胸に満ち満ちた。もはや言うことはない。「兵団長閣下、第一線に出てやってください!」。兵団長も嬉しそうに頷かれた。
以上のように、辻参謀は牟田口師団長について感動的に記している。当時、朝日新聞を読んだ読者からも、この箇所には、賞賛の声が多かった。
それから二年後の昭和19年3月、インパール作戦が行われた。作戦を指揮したのは第十五軍司令官・牟田口廉也中将で、三個師団を率いてインドに進攻した。
このインパール作戦では、牟田口軍司令官は、部下の幕僚を怒鳴り、督戦どころか、後方から将兵を突撃に激しく追い立て、さらには自分の意に反する隷下の三人の師団長を解任までした。
それは、マレー作戦で辻参謀が感動して朝日新聞に記した「上下渾然たる兵団一体の統制と気持ち」とは、かけ離れた「統率」であった。
<牟田口廉也中将プロフィル>
明治21年10月7日、佐賀県出身。
明治43年5月陸軍士官学校卒(22期)。12月歩兵少尉、歩兵第十三連隊附。
大正2年12月歩兵中尉。
大正6年11月陸軍大学校卒(29期・57名中25位)。
大正9年4月歩兵大尉、参謀本部員。
大正15年3月歩兵少佐。8月近衛歩兵第四連隊大隊長。
昭和2年5月軍務局軍事課員。
昭和4年2月フランス出張。8月参謀本部員。
昭和5年8月歩兵中佐。
昭和8年12月参謀本部総務部庶務課長。
昭和9年3月歩兵大佐。
昭和11年5月支那駐屯歩兵第一連隊長。
昭和13年3月陸軍少将、関東軍司令部附。7月第四軍参謀長。
昭和14年12月予科士官学校長。
昭和15年8月陸軍中将。
昭和16年4月第十八師団長。
昭和18年3月第十五軍司令官。
昭和19年8月参謀本部附、12月予備役。
昭和20年1月召集・予科士官学校長。9月召集解除。12月戦犯容疑で逮捕。
昭和21年9月シンガポール移送。
昭和23年3月釈放・帰国。戦後は東京都調布市で余生を送る。
昭和38年4月および昭和40年2月、国立国会図書館政治史料調査事務局の要請で、盧溝橋事件とインパール作戦の談話を録音。
昭和41年8月2日死去。七十七歳。