さらに佐藤師団長は「軍の統帥はでたらめだ。牟田口は訓示でも『皇国の荒廃この一戦にあり』と言っている。この作戦にそんなことを言うのは正気ではない。この作戦は牟田口が上司を動かして始めたにもかかわらず、この期に及んでなすことを知らない有様だ」と言ってさらに続けた。
「自分の立場に部下軍隊を引きつけ、統帥権冒涜におちいるようなことになれば、『戦線の2.26事件』ともなることだ。この際、われわれは誠忠の士となるべきことを心がけなければならない」
久野村軍参謀長は、しばらくして「インパール攻撃の師団長がその意思がなければ駄目ですな」と妙なことを言った。ロウソクの光の中で、その目が不気味に光っていた。
その後会談は続き、師団の終結地点は一応ミンタに決まった。会談が終わって、佐藤師団長は「どうだ、烈の将兵は、飲まず食わずでいくさをしても、士気旺盛だろうが」と大声で言った。
すると久野村軍参謀長は「上官に対し敬礼する意思はあるようですな」と皮肉の答えをした。
外に出るために佐藤師団長は席を立った。
すると久野村軍参謀長も立ち上がった。そして「閣下」と呼び止めた。そして「閣下は命令を実行されますか」と言った。語気が強かった。
佐藤師団長は「もちろん、軍命令は実行するさ」と不愉快になって答えた。
昭和19年7月9日、佐藤師団長あてに、十五軍から電報が届いた。「ビルマ方面軍司令部付に命ず」というものだった。師団長解任であった。
烈・第三十一師団後方主任参謀・野中国男少佐(陸士47・陸大56)は、終戦後ビルマに抑留され、自決した。死後、遺稿が見つかった。
その遺稿によると、野中参謀は解任された佐藤師団長を送ってチンドウイン河の渡河点まで行った。その帰りに第十五軍司令部に立ち寄り、牟田口軍司令官と会談した。
軍司令官に申告に行くと「参謀一名、佐藤中将について来るというから、だれかと思ったらお前だったか。だいぶ苦労したな、ゆっくり休んで明朝来てくれ」と言われた。
明朝十時、軍司令官と机をはさんでさし向いにかけた。煙草が出され、恩賜の酒が出され、すすめられるままに、外国煙草に火をつけた。
軍司令官は、佐藤中将をさんざんに酷評した。軍法会議にまわす、佐藤を叩き斬って俺も切腹すると言った。また、一人として腹を切ってでも、師団長を諌めようとする幕僚もいないとなじった。
そして「足利尊氏になることは誰にでもできる」とも言ったが、語っているその頭から湯気が立ち、眼が据わり、常人でないように感じられた。
すると突然に、軍司令官の話は「真崎将軍はあんな人とは思わなかった。俺も色々面倒を見たことがあるが」と何も関係の無いことにとんだりした。
佐藤師団長はラングーンのビルマ軍司令部に向かう途中、第十五軍司令部に寄ったが、牟田口軍司令官は前線視察で不在だった。
佐藤師団長は、ビルマの首都ラングーンのラングーン大学の中にあったビルマ軍司令部に到着したのは7月12日であった。佐藤師団長は、河辺正三軍司令官(陸士19・陸大27)と面会した。
その後、南方軍司令部から法務部長がきて、佐藤師団長を抗命罪で調査したが、不起訴になった。外形上は抗命行為があったが、精神鑑定の結果、当時は疲労のため、心神喪失状態にあったと判断され、不起訴になったのだ。
実際には佐藤師団長の精神には異常は無かったのだが、南方軍とビルマ方面軍が意図的に、事件を終結させた。佐藤師団長は予備役に編入させられた。
「完本太平洋戦争・(ニ)」(文春文庫)で、元第十五軍参謀・藤原岩市氏(陸士43・陸大50)は「インド進攻の夢破る」と題して寄稿している。その中で「ウ号作戦の秘匿名称を以って呼ばれたインパール作戦こそ、過ぐる太平洋戦争の間でも最も凄惨苛烈な異色の作戦であった」と記している。
昭和19年7月10日、牟田口軍司令官の具申が大本営に容れられ、インパール作戦中止、ジビュー山系、カレワの線に撤退すべき方面軍命令が下った。
「自分の立場に部下軍隊を引きつけ、統帥権冒涜におちいるようなことになれば、『戦線の2.26事件』ともなることだ。この際、われわれは誠忠の士となるべきことを心がけなければならない」
久野村軍参謀長は、しばらくして「インパール攻撃の師団長がその意思がなければ駄目ですな」と妙なことを言った。ロウソクの光の中で、その目が不気味に光っていた。
その後会談は続き、師団の終結地点は一応ミンタに決まった。会談が終わって、佐藤師団長は「どうだ、烈の将兵は、飲まず食わずでいくさをしても、士気旺盛だろうが」と大声で言った。
すると久野村軍参謀長は「上官に対し敬礼する意思はあるようですな」と皮肉の答えをした。
外に出るために佐藤師団長は席を立った。
すると久野村軍参謀長も立ち上がった。そして「閣下」と呼び止めた。そして「閣下は命令を実行されますか」と言った。語気が強かった。
佐藤師団長は「もちろん、軍命令は実行するさ」と不愉快になって答えた。
昭和19年7月9日、佐藤師団長あてに、十五軍から電報が届いた。「ビルマ方面軍司令部付に命ず」というものだった。師団長解任であった。
烈・第三十一師団後方主任参謀・野中国男少佐(陸士47・陸大56)は、終戦後ビルマに抑留され、自決した。死後、遺稿が見つかった。
その遺稿によると、野中参謀は解任された佐藤師団長を送ってチンドウイン河の渡河点まで行った。その帰りに第十五軍司令部に立ち寄り、牟田口軍司令官と会談した。
軍司令官に申告に行くと「参謀一名、佐藤中将について来るというから、だれかと思ったらお前だったか。だいぶ苦労したな、ゆっくり休んで明朝来てくれ」と言われた。
明朝十時、軍司令官と机をはさんでさし向いにかけた。煙草が出され、恩賜の酒が出され、すすめられるままに、外国煙草に火をつけた。
軍司令官は、佐藤中将をさんざんに酷評した。軍法会議にまわす、佐藤を叩き斬って俺も切腹すると言った。また、一人として腹を切ってでも、師団長を諌めようとする幕僚もいないとなじった。
そして「足利尊氏になることは誰にでもできる」とも言ったが、語っているその頭から湯気が立ち、眼が据わり、常人でないように感じられた。
すると突然に、軍司令官の話は「真崎将軍はあんな人とは思わなかった。俺も色々面倒を見たことがあるが」と何も関係の無いことにとんだりした。
佐藤師団長はラングーンのビルマ軍司令部に向かう途中、第十五軍司令部に寄ったが、牟田口軍司令官は前線視察で不在だった。
佐藤師団長は、ビルマの首都ラングーンのラングーン大学の中にあったビルマ軍司令部に到着したのは7月12日であった。佐藤師団長は、河辺正三軍司令官(陸士19・陸大27)と面会した。
その後、南方軍司令部から法務部長がきて、佐藤師団長を抗命罪で調査したが、不起訴になった。外形上は抗命行為があったが、精神鑑定の結果、当時は疲労のため、心神喪失状態にあったと判断され、不起訴になったのだ。
実際には佐藤師団長の精神には異常は無かったのだが、南方軍とビルマ方面軍が意図的に、事件を終結させた。佐藤師団長は予備役に編入させられた。
「完本太平洋戦争・(ニ)」(文春文庫)で、元第十五軍参謀・藤原岩市氏(陸士43・陸大50)は「インド進攻の夢破る」と題して寄稿している。その中で「ウ号作戦の秘匿名称を以って呼ばれたインパール作戦こそ、過ぐる太平洋戦争の間でも最も凄惨苛烈な異色の作戦であった」と記している。
昭和19年7月10日、牟田口軍司令官の具申が大本営に容れられ、インパール作戦中止、ジビュー山系、カレワの線に撤退すべき方面軍命令が下った。