さらに海軍兵学校長当時の生徒の思い出を井上は次の様にも語っている。
「抜き身をもってワラ切ってみたりする者もおりました。親に、卒業して戦地に行くのに刀が要るんだ、銘刀を買ってくれ、という者もおりました」
「そこで、私は刀を競うような気風は絶対にいかん、銭形平次の八公、あれなんか、刀をもってない、十手だ。剣道の心得のない者が刀を持ったって、刀を曲げて、刃をこぼすだけだ。人なんか切れるもんじゃない。だから、刀を競うなんてことはやめろ」
「ことに海軍士官が海軍士官が刀でどうといったってね。将校はピストルだぞ。と言ったものです。拳銃一つ持っていれば、最後の時には口の中にピストルを向けてポンとやれば、立派に死ねるんだぞ。刀に何百円という金を出すのはバカだ。と禁じた」
「生意気盛りの小僧たちを預かって、これはほうんとうに、教育勅語を読んで暮らさせるようなやり方じゃだめなんだと思いました。真から生徒たちの親に替わって鍛えてやろう、と、こういうつもりでした」
ある日、校長の井上成美海軍中将のところへ歴史教官が兵学校の生徒用の歴史の教科書の原稿を書いて見せに来た。
満州事変、日中事変が日本の国民精神と軍隊の士気高揚に、非常に役立っていると書いてあった。
井上校長は原稿をこぶしで叩きながら怒った。「なんだこの歴史は、満州事変が、日中事変がどういうものだか知っているのか」
するとその歴史教官は「新聞で見たとおり書きました」と平然と答え、すましていた。
「新聞を読んで考えたのか?」
「はぁ」
「その結論が、これか。削れ」
「どうしても削らなければいけませんか」
「いかん、絶対にいかん。陸軍は幕府だ。幕府政治だから陛下の言う事を聞かないんだ。こんな内容を許すわけにはいかん。こんなことは校長として恥だ。断じて許さん。削れ」と言って遂に削らした。
また、井上校長は陸軍士官学校生徒との文通を禁じた。井上を始めとして海軍の良識派は、すべて陸軍ぎらいであった。
井上中将は「海軍がな、陸軍と仲良くしたときは、日本の政治は悪いほうにいっているんだ」と言っている。
士官学校から兵学校生徒に葉書が来たときがある。「付き合おう、陸海軍仲良くしなくちゃいかん」という葉書だった。
教官連中がが井上校長に返事を出してよいかと聞きにきたので、「それは絶対にだめだ。そんな葉書は破り捨てろ」と指示した。
すると教官連中は「なぜ陸海軍が仲良くしてはいけないのですか」と反論した。正論ではある。
だが井上校長は「陸軍が嫌いとか好きだとか言っているのではない。陸軍は陸軍第一、日本国第二なんだ。そういう教育をしている陸軍みたいな学校と兵学校はちがうのだ。そういうやからとつきあうことはならん」
さらに「海軍は国家第一、国家あっての海軍だ。満州事変を見ろ、支那事変を見ろ、みんな陸軍が先に立って国家を引っ張っていこうとしているじゃないか」と反論した。
テーブルを叩いて憤慨した教官もいた。「校長横暴」の声も出た。だが井上は動じなかった。反論を寄せ付けなかった。
このときテーブルを叩いて憤慨した教官が、戦後二、三年たって横須賀市長井の井上の住まいを訪ねてきた。
その教官は井上の前に両手を突くと、「申し訳ありませんでした。いまになって、校長の言われたことがわかりました」と言って詫びた。井上は、このことを喜んだという。
「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、海軍部内で激しく対立した南雲忠一は、兵学校は井上より一期上の三十六期だった。この期に岸信介、佐藤栄作の兄弟宰相の長兄・佐藤市郎がいた。
佐藤市郎は飛びぬけた秀才で、兵学校は入校、各学年、卒業と全て一番だった。平均点は95.6点だった。この点数は兵学校始まって以来だった。海軍大学校(18期)も首席だった。
この佐藤市郎を井上はどう見ていたか。この佐藤評を、求められたとき、井上は「つまらん」とひと言いったきりであったという。
「抜き身をもってワラ切ってみたりする者もおりました。親に、卒業して戦地に行くのに刀が要るんだ、銘刀を買ってくれ、という者もおりました」
「そこで、私は刀を競うような気風は絶対にいかん、銭形平次の八公、あれなんか、刀をもってない、十手だ。剣道の心得のない者が刀を持ったって、刀を曲げて、刃をこぼすだけだ。人なんか切れるもんじゃない。だから、刀を競うなんてことはやめろ」
「ことに海軍士官が海軍士官が刀でどうといったってね。将校はピストルだぞ。と言ったものです。拳銃一つ持っていれば、最後の時には口の中にピストルを向けてポンとやれば、立派に死ねるんだぞ。刀に何百円という金を出すのはバカだ。と禁じた」
「生意気盛りの小僧たちを預かって、これはほうんとうに、教育勅語を読んで暮らさせるようなやり方じゃだめなんだと思いました。真から生徒たちの親に替わって鍛えてやろう、と、こういうつもりでした」
ある日、校長の井上成美海軍中将のところへ歴史教官が兵学校の生徒用の歴史の教科書の原稿を書いて見せに来た。
満州事変、日中事変が日本の国民精神と軍隊の士気高揚に、非常に役立っていると書いてあった。
井上校長は原稿をこぶしで叩きながら怒った。「なんだこの歴史は、満州事変が、日中事変がどういうものだか知っているのか」
するとその歴史教官は「新聞で見たとおり書きました」と平然と答え、すましていた。
「新聞を読んで考えたのか?」
「はぁ」
「その結論が、これか。削れ」
「どうしても削らなければいけませんか」
「いかん、絶対にいかん。陸軍は幕府だ。幕府政治だから陛下の言う事を聞かないんだ。こんな内容を許すわけにはいかん。こんなことは校長として恥だ。断じて許さん。削れ」と言って遂に削らした。
また、井上校長は陸軍士官学校生徒との文通を禁じた。井上を始めとして海軍の良識派は、すべて陸軍ぎらいであった。
井上中将は「海軍がな、陸軍と仲良くしたときは、日本の政治は悪いほうにいっているんだ」と言っている。
士官学校から兵学校生徒に葉書が来たときがある。「付き合おう、陸海軍仲良くしなくちゃいかん」という葉書だった。
教官連中がが井上校長に返事を出してよいかと聞きにきたので、「それは絶対にだめだ。そんな葉書は破り捨てろ」と指示した。
すると教官連中は「なぜ陸海軍が仲良くしてはいけないのですか」と反論した。正論ではある。
だが井上校長は「陸軍が嫌いとか好きだとか言っているのではない。陸軍は陸軍第一、日本国第二なんだ。そういう教育をしている陸軍みたいな学校と兵学校はちがうのだ。そういうやからとつきあうことはならん」
さらに「海軍は国家第一、国家あっての海軍だ。満州事変を見ろ、支那事変を見ろ、みんな陸軍が先に立って国家を引っ張っていこうとしているじゃないか」と反論した。
テーブルを叩いて憤慨した教官もいた。「校長横暴」の声も出た。だが井上は動じなかった。反論を寄せ付けなかった。
このときテーブルを叩いて憤慨した教官が、戦後二、三年たって横須賀市長井の井上の住まいを訪ねてきた。
その教官は井上の前に両手を突くと、「申し訳ありませんでした。いまになって、校長の言われたことがわかりました」と言って詫びた。井上は、このことを喜んだという。
「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、海軍部内で激しく対立した南雲忠一は、兵学校は井上より一期上の三十六期だった。この期に岸信介、佐藤栄作の兄弟宰相の長兄・佐藤市郎がいた。
佐藤市郎は飛びぬけた秀才で、兵学校は入校、各学年、卒業と全て一番だった。平均点は95.6点だった。この点数は兵学校始まって以来だった。海軍大学校(18期)も首席だった。
この佐藤市郎を井上はどう見ていたか。この佐藤評を、求められたとき、井上は「つまらん」とひと言いったきりであったという。