昭和5年1月21日ロンドン軍縮会議が始った。補助艦艇対米比率を巡って会議は紛糾した。
だが、結局補助艦合計の対米比率0・697で、日本政府は閣議決定し、ロンドンの若槻礼次郎全権に回訓を発した。
4月22日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で五カ国全権により調印、ロンドン軍縮条約は成立した。
このとき、海軍省はロンドン条約に不満はあるがひとまず協定すべきという意見が大半であった。
財部彪海軍大臣は、全権でロンドンにいたし、海軍省に残っていた山梨勝之進次官、堀悌吉軍務局長ら首脳も条約派で、ロンドン条約に賛成だった。
ところが、軍令部は、加藤寛治軍令部長、末次信正軍令部次長ら、ワシントン会議以来の艦隊派の首脳だったので、ロンドン条約に猛反対した。
ロンドン条約成立の二日前の4月20日、末次軍令部次長は条約派に「ロンドン条約には不同意である」旨の覚書を山梨海軍次官に送りつけた。
このようにして当時の軍令部と海軍省、つまり艦隊派と条約派の対立はロンドン条約を契機に一気に噴出した。
「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、昭和7年5月15日午後5時25分、海軍士官6名、陸軍士官学校生徒11名、農民同志らによる集団テロが決行された。
犬養毅首相をピストルで射殺、牧野伸顕邸と警視庁と政友会本部に手りゅう弾を投げ込んだ。5.15事件である。
この5.15事件をめぐって、海軍部内は批判、同情二つの意見に割れた。当時海軍大学校教官であった井上成美大佐は徹底した5.15事件批判論者であった。
井上大佐と意見を異にして、5.15事件を起した海軍青年士官に同情の立場をとっていた側に軍令部第二部長・南雲忠一大佐がいた。
南雲大佐は「五・一五事件の解決策」という一文を草し、強力なる海軍を実現して国を救おうと決起した青年士官らの行動を高く評価した。その内容は次のようなものであった。
一、判決の公正。イ、死刑又は無期は絶対に避けること。ロ、被告の至誠報国の精神を高揚し、その動機を諒とすること。
二、検察官の論告に対し、責任ある者に対しては、適当の処置をとること。
三、ロンドン条約に関連し、軟弱にして統帥権干犯の疑義を生ぜせしむに至った重要責任者に対して、適当なる処置をとること。
四、右一、二の処置は、速やかにとるほど効果大なり、而して、その処置をとるとともに、軍紀を刷新するを要す。
付、青年将校の念願は、要するに強力なる海軍を建設するにあり。部内統制の見地においても、明年度大演習の施行、第四艦隊の編制、訓練等術力練磨に寄与する方策の実現は絶対に必要なり。
これは軍縮条約に反対する艦隊派の終始変わらない考え方でもあったのである。
この考え方に反対し断罪を望んでいたのが、条約派であった。艦隊派と条約派は5.15事件の処分をめぐっても対立した。そしてその溝は深まる一方であった。
さらにこの対立に火をつけたのが、「省部事務互渉規定」であった。
この規定は明治26年に制定されたもので、軍機・軍略を始め、軍艦、軍隊の発差(派遣)にしても、起案は軍令部でできるが、海軍大臣に事前に商議し、陛下の上裁を経て、予算を動かす海軍大臣に移すというものだった。
これに対する軍令部の不満は、大正10年のワシントン軍縮会議、昭和5年のロンドン軍縮会議を経て、ますます高まった。
軍令部長の権限で戦力や兵力量を決定できるようにしなければ、国を危うくするという論が軍令部内に沸騰し始めていた。
昭和7年当時の軍令部長は伏見宮博恭王であった。この宮の威光を利用して、一気に事を運ぼうとする動きが活発になっていた。
その中心人物が軍令部次長の高橋三吉中将であり、軍令部第二課長・南雲忠一大佐であった。
だが、結局補助艦合計の対米比率0・697で、日本政府は閣議決定し、ロンドンの若槻礼次郎全権に回訓を発した。
4月22日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で五カ国全権により調印、ロンドン軍縮条約は成立した。
このとき、海軍省はロンドン条約に不満はあるがひとまず協定すべきという意見が大半であった。
財部彪海軍大臣は、全権でロンドンにいたし、海軍省に残っていた山梨勝之進次官、堀悌吉軍務局長ら首脳も条約派で、ロンドン条約に賛成だった。
ところが、軍令部は、加藤寛治軍令部長、末次信正軍令部次長ら、ワシントン会議以来の艦隊派の首脳だったので、ロンドン条約に猛反対した。
ロンドン条約成立の二日前の4月20日、末次軍令部次長は条約派に「ロンドン条約には不同意である」旨の覚書を山梨海軍次官に送りつけた。
このようにして当時の軍令部と海軍省、つまり艦隊派と条約派の対立はロンドン条約を契機に一気に噴出した。
「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、昭和7年5月15日午後5時25分、海軍士官6名、陸軍士官学校生徒11名、農民同志らによる集団テロが決行された。
犬養毅首相をピストルで射殺、牧野伸顕邸と警視庁と政友会本部に手りゅう弾を投げ込んだ。5.15事件である。
この5.15事件をめぐって、海軍部内は批判、同情二つの意見に割れた。当時海軍大学校教官であった井上成美大佐は徹底した5.15事件批判論者であった。
井上大佐と意見を異にして、5.15事件を起した海軍青年士官に同情の立場をとっていた側に軍令部第二部長・南雲忠一大佐がいた。
南雲大佐は「五・一五事件の解決策」という一文を草し、強力なる海軍を実現して国を救おうと決起した青年士官らの行動を高く評価した。その内容は次のようなものであった。
一、判決の公正。イ、死刑又は無期は絶対に避けること。ロ、被告の至誠報国の精神を高揚し、その動機を諒とすること。
二、検察官の論告に対し、責任ある者に対しては、適当の処置をとること。
三、ロンドン条約に関連し、軟弱にして統帥権干犯の疑義を生ぜせしむに至った重要責任者に対して、適当なる処置をとること。
四、右一、二の処置は、速やかにとるほど効果大なり、而して、その処置をとるとともに、軍紀を刷新するを要す。
付、青年将校の念願は、要するに強力なる海軍を建設するにあり。部内統制の見地においても、明年度大演習の施行、第四艦隊の編制、訓練等術力練磨に寄与する方策の実現は絶対に必要なり。
これは軍縮条約に反対する艦隊派の終始変わらない考え方でもあったのである。
この考え方に反対し断罪を望んでいたのが、条約派であった。艦隊派と条約派は5.15事件の処分をめぐっても対立した。そしてその溝は深まる一方であった。
さらにこの対立に火をつけたのが、「省部事務互渉規定」であった。
この規定は明治26年に制定されたもので、軍機・軍略を始め、軍艦、軍隊の発差(派遣)にしても、起案は軍令部でできるが、海軍大臣に事前に商議し、陛下の上裁を経て、予算を動かす海軍大臣に移すというものだった。
これに対する軍令部の不満は、大正10年のワシントン軍縮会議、昭和5年のロンドン軍縮会議を経て、ますます高まった。
軍令部長の権限で戦力や兵力量を決定できるようにしなければ、国を危うくするという論が軍令部内に沸騰し始めていた。
昭和7年当時の軍令部長は伏見宮博恭王であった。この宮の威光を利用して、一気に事を運ぼうとする動きが活発になっていた。
その中心人物が軍令部次長の高橋三吉中将であり、軍令部第二課長・南雲忠一大佐であった。