「抗命」(文春文庫)によると、インド進攻作戦に反対するのは幕僚や隷下師団長だけではなかった。ビルマ方面軍や南方軍も、牟田口中将の独走計画として黙殺し、支持しなかった。だが牟田口中将はひるまなかった。
昭和18年5月、新任の南方軍総参謀副長・稲田正純少将(陸士29・陸大37恩賜)が戦線視察のためビルマに来て、ビルマ方面軍司令官・河辺中将と会談した。
河辺軍司令官は、牟田口軍司令官が強引な一本調子でインド進攻作戦の実現を要求しているので手を焼いているという印象だった。
稲田副長はメイミョウの第十五軍司令部を訪ねて、牟田口中将に面会した。牟田口中将は待ち受けたように、インド進攻計画を訴えた。しかも雨季明けの9月に実施するというものだった。
稲田副長は、牟田口中将は、気がはやり、あせっていると感じた。「次の機会までによく研究して欲しい」と再考を求めた。
すると牟田口軍司令官は、満州にいた当時の話を持ち出した。「あのとき、お前に頼んだことがある」。それは盧溝橋事件の二年後のことで、関東軍の第四軍参謀長だった牟田口少将は、大本営から視察に来た稲田作戦課長にたのんだ。
「俺は盧溝橋で第一発を撃った時の連隊長として責任を感じている。どうしても誰か殺さねばならない作戦があれば、俺を使ってくれ」と頼んだ、そのことを言っているのだ。
「俺の気持ちはあの時と同じだ。ベンガル州にやって死なせてくれんか」。8期も後輩の稲田副長に、これほど頼むとは、本心に違いないと思われた。
だが、稲田副長は「インドに行って死ねば、牟田口閣下はお気がすむかも知れませんが、日本がひっくりかえってはなんにもなりませんよ」と遠慮のない答えをした。
それでも牟田口中将は、決意を変えようとはしなかった。ついに東條首相に直接手紙を送って、計画の承認を求めた。
解任された小畑軍参謀長の後任の軍参謀長には久野村桃代(くのむら・とうだい)少将(陸士27・陸大37)が補任された。久野村少将は八方美人で、上官に苦言をあえて言う人ではなかった。
昭和18年6月24日から四日間、ラングーンのビルマ方面軍司令部で兵棋演習が行われた。南方軍がビルマ防衛線の推進に関心を持ち、研究を要望したためだった。
これを視察するため、大本営から第二課(作戦)の竹田宮恒徳王(たけだのみや・つねよしおう)少佐(陸士42・陸大50)と南方主任参謀・近藤進少佐(陸士46・陸大53恩賜)が派遣されてきた。
南方軍からは稲田総参謀副長以下、各主任参謀、シンガポールの第三航空軍からは高級参謀・佐藤直大佐(陸士35・陸大47)が出席した。
牟田口軍司令官は、この兵棋演習を絶好の機会ととらえた。ついに第十五軍のインド進攻、インパール占領作戦の兵棋演習が行われた。
6月26日の夜、牟田口軍司令官は竹田宮に拝謁して、インパール作戦の必要性を説明して、大本営の認可を願った。その態度、語調には強烈な信念があふれていた。
竹田宮は、はっきりと、「現在の十五軍の案ではインパール作戦は不可能だ」と答えた。「不完全な後方補給では大規模な進攻は困難である」と。牟田口軍司令官はそれでも、しつこく認可を願ってやまなかった。
演習終了後、ビルマ方面軍参謀長・中永太郎中将(陸士26・陸大36)も南方軍・稲田副長も反対した。牟田口軍司令官が期待していた機会はむなしく消えてしまった。
「丸・エキストラ先史と旅・将軍と提督」(潮書房)によると、ビルマ方面軍では高級参謀・片倉衷大佐(陸士31・陸大40)が牟田口計画に真っ向から反対していた。片倉大佐は相手かまわず大声でしかりつけた。口をきわめてののしるので有名だった。ラングーンの軍司令部では、独特の大きなののしり声が聞こえない日はなかった。
6月24日からラングーンのビルマ方面軍司令部で行われた兵棋演習で、牟田口軍司令官は、第十五軍が策定した独自のインド進攻作戦計画を、方面軍司令官に直接提出しようとした。
しかし、方面軍の片倉高級参謀はこれの受理を拒否するとともに、第十五軍が方面軍の了解もなくその独自案を大本営(竹田宮を通じて)にまで提出しようとするのは軍秩序上許されぬと面罵した。
この件で、片倉高級参謀と第十五軍・久野村軍参謀長とのあいだで、激論が闘わされた。
昭和18年5月、新任の南方軍総参謀副長・稲田正純少将(陸士29・陸大37恩賜)が戦線視察のためビルマに来て、ビルマ方面軍司令官・河辺中将と会談した。
河辺軍司令官は、牟田口軍司令官が強引な一本調子でインド進攻作戦の実現を要求しているので手を焼いているという印象だった。
稲田副長はメイミョウの第十五軍司令部を訪ねて、牟田口中将に面会した。牟田口中将は待ち受けたように、インド進攻計画を訴えた。しかも雨季明けの9月に実施するというものだった。
稲田副長は、牟田口中将は、気がはやり、あせっていると感じた。「次の機会までによく研究して欲しい」と再考を求めた。
すると牟田口軍司令官は、満州にいた当時の話を持ち出した。「あのとき、お前に頼んだことがある」。それは盧溝橋事件の二年後のことで、関東軍の第四軍参謀長だった牟田口少将は、大本営から視察に来た稲田作戦課長にたのんだ。
「俺は盧溝橋で第一発を撃った時の連隊長として責任を感じている。どうしても誰か殺さねばならない作戦があれば、俺を使ってくれ」と頼んだ、そのことを言っているのだ。
「俺の気持ちはあの時と同じだ。ベンガル州にやって死なせてくれんか」。8期も後輩の稲田副長に、これほど頼むとは、本心に違いないと思われた。
だが、稲田副長は「インドに行って死ねば、牟田口閣下はお気がすむかも知れませんが、日本がひっくりかえってはなんにもなりませんよ」と遠慮のない答えをした。
それでも牟田口中将は、決意を変えようとはしなかった。ついに東條首相に直接手紙を送って、計画の承認を求めた。
解任された小畑軍参謀長の後任の軍参謀長には久野村桃代(くのむら・とうだい)少将(陸士27・陸大37)が補任された。久野村少将は八方美人で、上官に苦言をあえて言う人ではなかった。
昭和18年6月24日から四日間、ラングーンのビルマ方面軍司令部で兵棋演習が行われた。南方軍がビルマ防衛線の推進に関心を持ち、研究を要望したためだった。
これを視察するため、大本営から第二課(作戦)の竹田宮恒徳王(たけだのみや・つねよしおう)少佐(陸士42・陸大50)と南方主任参謀・近藤進少佐(陸士46・陸大53恩賜)が派遣されてきた。
南方軍からは稲田総参謀副長以下、各主任参謀、シンガポールの第三航空軍からは高級参謀・佐藤直大佐(陸士35・陸大47)が出席した。
牟田口軍司令官は、この兵棋演習を絶好の機会ととらえた。ついに第十五軍のインド進攻、インパール占領作戦の兵棋演習が行われた。
6月26日の夜、牟田口軍司令官は竹田宮に拝謁して、インパール作戦の必要性を説明して、大本営の認可を願った。その態度、語調には強烈な信念があふれていた。
竹田宮は、はっきりと、「現在の十五軍の案ではインパール作戦は不可能だ」と答えた。「不完全な後方補給では大規模な進攻は困難である」と。牟田口軍司令官はそれでも、しつこく認可を願ってやまなかった。
演習終了後、ビルマ方面軍参謀長・中永太郎中将(陸士26・陸大36)も南方軍・稲田副長も反対した。牟田口軍司令官が期待していた機会はむなしく消えてしまった。
「丸・エキストラ先史と旅・将軍と提督」(潮書房)によると、ビルマ方面軍では高級参謀・片倉衷大佐(陸士31・陸大40)が牟田口計画に真っ向から反対していた。片倉大佐は相手かまわず大声でしかりつけた。口をきわめてののしるので有名だった。ラングーンの軍司令部では、独特の大きなののしり声が聞こえない日はなかった。
6月24日からラングーンのビルマ方面軍司令部で行われた兵棋演習で、牟田口軍司令官は、第十五軍が策定した独自のインド進攻作戦計画を、方面軍司令官に直接提出しようとした。
しかし、方面軍の片倉高級参謀はこれの受理を拒否するとともに、第十五軍が方面軍の了解もなくその独自案を大本営(竹田宮を通じて)にまで提出しようとするのは軍秩序上許されぬと面罵した。
この件で、片倉高級参謀と第十五軍・久野村軍参謀長とのあいだで、激論が闘わされた。