陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

57.田中隆吉陸軍少将(7) 支那事変を解決せんとする陸軍の巨星は全て葬り去られた

2007年04月20日 | 田中隆吉陸軍少将
 翌日板垣大臣は田中大佐を大臣室に呼び、しみじみと「自分は貴公の言うことが一番良い事を知っている」と言った。

 そのあと板垣大臣は、続けて「然し満州事変で死生を共にした石原は、自分の手で処分する事はできない」と語った。田中大佐は思わずホロリとしたという。

 昭和15年7月22日、第二次近衛内閣成立で、東條英機中将は陸軍大臣として登場した。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると中国の第一軍参謀長から兵務局長に転任になった田中少将は昭和15年12月10日に、阿南次官を訪問後、東條大臣に着任の申告をした。

 その時東條大臣は田中少将に「石原を議会前に待命にする」と断言した。

 田中少将は「来年の3月の定期異動まで待ってしたほうが良い」と極力反対した。

 その後も田中少将は石原中将の人材を惜しんでしばしば東條大臣に待命の不可なる事を進言した。

 だが東條大臣は昭和16年1月末、ついに石原中将の待命を内奏した。3月石原中将は待命になった。

 田中少将は東條大臣が独断で石原中将を待命にしたことが洩れたら大変であると思った。

 それで、軍紀風紀の監督の任にある兵務局が「石原中将は軍の統制に服せず」と大臣に意見具申をし、これに基づいて大臣が行った事にする方針にした。

 そうしたら部内は石原中将と田中少将が仲が良いのを知っているから、円満におさまるだろうと考え、それを宣伝した。

 このため田中少将は石原中将に好意を有する部内外から様々な悪罵を浴びせかけられた。こうして石原中将は現役を去った。

 多田大将も昭和16年8月予備役になった。板垣中将も7月、大将に昇任と同時に朝鮮軍司令官として京城に追いやられた。

 こうして速やかに支那事変を解決せんとする陸軍の巨星は全て葬り去られた。

 東條大将も板垣大将も、戦後東京裁判でともにA級戦犯として死刑判決を受け、昭和23年12月23日、刑死した。

 田中少将は兵務局長着任の翌日省内各局長の許へ挨拶に行った。

 その時武藤章軍務局長は田中少将に「今年の議会では憲兵で議場を包囲し、悪質の議員を捕えてくれぬか」と言った。

 田中少将は冗談にも程があると思った。様々な人に会って事情を聞いてみると、その頃問題となっていたのが大政翼賛会であった。

 武藤軍務局長はこの大政翼賛会に反対の代議士を捕えよということであった。

 それでは大翼賛会とはなにか。その幕僚は親軍代議士であり、イデオロギー官僚であり、これを操縦したのが矢吹一夫氏であった。

 その意図は挙国一致の美名の下に一切の政党を解消して大政翼賛会の下に結集し、これにより国民に号令を発して体制を整えんとするものであった。

 換言すれば一国一党を目指すものであって、実はドイツナチスの模倣であった。

 そして、その中心にいたのが陸軍省の武藤軍務局長であった。