陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

457.乃木希典陸軍大将(37)乃木ってえのが、鬼も鬼、涙のこれっぽちのねえ野郎で

2014年12月26日 | 乃木希典陸軍大将
 老婆が、あわてて熊吉をさえぎった。「熊さん、およしなさいよ。今更仕方がない。そんなことをこの親切なご隠居さんに聞かせちゃあ悪いじゃないか」。「そりゃそうだが……。だがねえ、愚痴も言いたくならあ。年端もいかねえこのお妙坊が、辻占売りに出なきゃならねえなんて、全く、この世はお先真っ暗だ」。乃木大将は黙ってうつむいていた。

 熊吉は、その乃木大将に、「ねえ、ご隠居さん、たった一人の稼ぎ手の甚太郎が骨で帰ってくるなんて、神様も仏様もねえや。甚太郎が鬼のような大将に使われたのも、不運には違いねえが」。

 老婆が布団の上で言った。「熊さん、ご隠居さんが迷惑するじゃないかね」。すると熊吉は「いいじゃねえか。誰だって知ってらあ、あの第三軍の総大将、乃木ってえのが、鬼も鬼、涙のこれっぽちのねえ野郎で、兵隊ばかりを無理やりに進めて殺したってのは」。

 「およしなさい。せっかく、ご親切にこうしてお見舞いに見えたのに……」。語気を強めて言った老婆の声に、さすがに熊吉も不承不承口を閉じた。
 
 黙然と目を閉じて熊吉の言葉を聞いていた乃木大将が、ぽつりと言った。「よく分りました。お国のためとは言いながら全くお気の毒なことです」。

 「運がなかったもののと思って、今はあきらめています」と、老婆は力なげに笑顔を見せた。「すんませんねえ、ご隠居さん」。熊吉も頭を下げた。

 乃木大将は、胸の内ポケットから財布を出すと、そのまま老婆の前に置いた。「これは持ち合わせですが、薬代にでも使って頂きたい」。「とんでもない。先日もたくさん頂いたうえに、また、こんな……」。「いや、お国から息子さんに賜ったものと思って、受け取ってください」。

 熊吉が乃木大将の前に両手をついた。「ありがとうござんす」。妙も小さなひびだらけの手を揃えて「おじいちゃん、どうもありがとう」とこっくり頭を下げた。「では」と乃木大将は立ち上がった。

 すると、老婆が、腰を浮かして言った。「どちらのお方か、お名前をお聞かせください」。「いや、名前を言うほどの者ではない。ただ行きずりの年寄りです」。熊吉も「そんなことってねえや。お名前だけでも」と、土間に下りる乃木大将に声をかけた。

 「いや、いいのだ」。乃木大将が一礼して戸口に出ようとするのに、熊吉が「ご隠居、じゃ、あっしの車に乗ってくんねえ。何もできねえお礼に、車でお送りしやすから」。「歩いてもわずかな所だ。車はいりません」。

 「それじゃあ、ここは通せねえ」。熊吉はいきり立った。「ここまでして貰って、名前も聞けねえ、お送りもできねえとあっちゃあ、江戸っ子の面汚しだ。この熊吉が仏の甚太郎に顔向けできねえ」。

 乃木大将は困ったように、布団に座った老婆を見た。老婆があきらめたように言った。「熊さん、無理を言ってご隠居さんを困らすもんじゃないよ。ご隠居さんお通り下さいまし。本当にありがとうございました」。「ではお大事に」。乃木大将は歩き出した。

 熊吉はその後姿を見送りながら、「妙な人だなあ。何もそんなに隠さなくたって……」。すると、妙が、「あたい、あのおじいちゃんの名前、知ってるわ」と得意そうに言った。老婆も熊吉もびっくりした。「な、なんだって……。本当かい」。

 うん、さっき家に来るとき、聞いたわ。“まれすけ”って言ってたわ」。「“まれすけ”……? へええ、そうかい。ただ、まれすけ、だけかい? その上に何かつかねえのかい?」。「言わなかったわ。ただまれすけよ」。

 でも、と、熊吉はくびをかしげた。「あのご隠居は、どっかで見たような気がするな。ばあさん、おらあ、ちょっとあのご隠居のあとをつけて行ってくるぜ」。

 それからものの二十分もたたぬ間に、熊吉が帰って来た。はあはあ、苦しそうな息を吐いていたが、むっつりして、上りかまちに腰を下ろした。「どうしたんだい、熊さん。分らなかったのかい」。

 「おらあ、とんでもねえことを、言っちまった」。「何がさ、熊さん。はっきりおしなよ」。あのご隠居の家は、新坂町、門構えの大した家だった。だが、その表札を見てたまげちまった」。「どうして?」。「あのご隠居さん、乃木さん、だったよ。乃木希典てえ、でけえ表札が、かかっていた」。

 老婆は、布団の上に突っ伏して、泣いた。うなだれた熊吉の両眼から、ぽたぽた音をたてて、涙が畳に落ちた。「あれだけの悪態を聞かされていながら、ただ、黙って聞いていなさった。すまねえ、かんべんしておくんなさい」。熊吉は心の中で、何度も詫びた。

 明治四十年一月三十一日、明治天皇の聖旨によって、乃木大将は第十代学習院長に任命された。

 「乃木希典の世界」(桑原嶽・菅原一彪編・新人物往来社)によると、学習院長としての乃木大将の教育方針は、当時華族界の子弟が、華美に流れ軟弱に陥ることを憂えられた明治天皇の御心を受けて、質実剛健の学風を作り上げることだった。

 そのために、従来の学科に加えて剣道を正課とし、夏には湘南片瀬においてテント生活をして遊泳を行い、また、陸軍大演習の見学など武課教育を行って、体力・志操の鍛錬と忍耐力の涵養に努めた。