陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

37.遠藤三郎陸軍中将(7) 杓子定規に規定を守るのと、日本の将軍と皇帝との約束のとどちらが大切か

2006年12月01日 | 遠藤三郎陸軍中将
 「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、昭和14年5月、日独伊三国軍事同盟締結をめぐる問題で、遠藤大佐は次のように記している。

 「ほとんど全課長が本同盟に賛成している中で参謀本部欧米課長・辰巳栄一大佐のみが『英国は腐っても鯛だ。軽視して敵に回すべきではない』とただ一人反対した。意見の適否は別にして、その勇気には敬意を表したい」。

 戦前、吉田茂大使のもとで2度目の英国駐在武官を務めた辰巳栄一氏(元陸軍中将)は、戦後、日独伊三国軍事同盟締結を振り返って次のように述べている。

 「とにかく陸軍主流はドイツ留学組ばかり。ドイツかぶれが多かった。国際情勢に暗いし、国力判断ができない。私は米国まわりで英国へ赴任した時、フォードの自動車工場を見学して、車がベルトコンベアでどんどんできるのにびっくりした。アレだけでも国力の差が痛いほどわかった」。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和14年9月遠藤少将は関東軍参謀副長として再び満州の地を踏んだ。当時、航空総監であった東條中将が満州を訪れ、満軍に航空部隊の新設を要望した。

 東條中将は「航空の増強は目下の急務であるが日本国内では議会の承認を得ねばならず、それは困難であるから何の制約もない満州国で作ってもらいたい。飛行機も要員も日本から送るから経費だけ満州国で負担し、名目を満州国の航空部隊にして貰えば宜しい」と主張した。

 だが遠藤少将は「満州に軍隊を作る事は建国の理想に反するだけでなく、そんな姑息な手段で作った軍隊は軍隊としての価値がないから、必要ならば正々堂々と議会の協賛を得て皇軍にふさわしい日本軍を作るべきである」と反論した。

 両方とも相譲らず、とうとう物別れになった。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、関東軍参謀副長を半年勤めた後、昭和15年3月、遠藤少将は浜松飛行学校附となる。

 この頃、満州国皇帝(清朝最後の皇帝の薄儀)が日本を訪問した。遠藤少将は関東軍参謀副長の時日本大使館附武官を兼任していたので満州国皇帝とはしばしば面談の機会があった。

 皇帝は近々日本を訪問する予定であったので、遠藤少将は転任で満州を離れる時、日本で皇帝をお迎えする事を約束して別れた。

 ところがいよいよ来日されると、遠藤少将は浜松飛行学校附という身分では公式レセプションに出る資格もなく、お迎えする機会がなかった。

 たまたま皇帝が京都に移られる途中お召列車が沼津駅にも浜松駅にも短時間停車するとの情報を得た。

 遠藤少将は浜松駅のホームでお迎えしようと思ったが、多数の奉迎者の中で一寸敬礼しただけでは余りにもお粗末なので、無断で沼津駅まで先行して沼津駅でお召列車に同乗した。

 随行の御附武官、吉岡安直中将(陸士は遠藤より一期上の旧知)の案内で皇帝のワゴン車に入り、浜松駅まで皇帝とゆっくり話をして、離満の時の約束を果たした。

 ところが後にそれが問題になり、陸軍省と宮内省からクレームがついた。無資格者が許可なくでお召列車に乗ったことであり、それを阻止しなかった憲兵司令官と浜松駅長の責任問題に発展した。

 遠藤少将は「杓子定規に規定を守るのと、日本の将軍が皇帝との約束を守るのとどちらが大切か」と乱暴に似た理屈で申し開きをした。その結果事なきを得て済んだ。

 後に吉岡中将から聞いた話として、皇帝は吉岡中将に「日本を訪問して嬉しかったのは遠藤が約束を守って列車の中まで迎えに来てくれたことと、沿道の農民が田植えの手を休め笠を取り泥の手を振って歓迎してくれたことであった」と話したという。

 戦後、遠藤が昭和35年、四回目の中国訪問をした時、撫順の戦犯収容所慰問した。そこには薄儀氏と弟の薄傑氏が収容されていた。

 遠藤は二人に面会し収容所の配慮で三人で自由に話す事が出来たという。その後二人は釈放され、それぞれ職に就いたという。薄傑氏の夫人は侯爵嵯峨氏の令嬢で戦後夫婦は北京で暮らした。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和15年8月遠藤少将は第三飛行団長を拝命した。

 当時長沙付近で戦闘中であった第十一軍の第十三師団が陳誠将軍の指揮する十数個師団に囲まれ、全く孤立、苦戦に陥った。

 遠藤飛行団長は上京視察のために単身、部下の左高中尉機に搭乗し師団司令部に向かった。


1 コメント

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軍神南郷親戚遠藤喜太郎 (世良 康雄)
2012-05-31 02:29:10
軍神PILOT南郷親戚が、明治天皇侍従遠藤喜太郎陸軍大将で妻が内山男爵娘らしいですが、子息遠藤中将は閑院宮春仁王研究生出席経験の総力研究所所長らしく、戦後の南郷家と遠藤家と閑院純仁交遊関係はどうだったのでしょう?
警察がMRA,IC特高の正力柔道派閥でなく、閑院宮派や山階宮派南郷家親戚嘉納治五郎柔道で伝統重視希望です

住所 神戸市中央区古湊通り2-2-10GSハイム
誕生 1970/12/28
学歴 関学商学部1994年
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〔或る冬の日、花園院に心惹かれる 臨川寺領地〕
http://d.hatena.ne.jp/naozari/mobile?date=20110210

〔真日本建国 伯家神道の予言 2012年のシンクロ〕
http://jinga123.blog118.fc2.com/blog-entry-34.html
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