しばらくして、石原莞爾中佐参謀が入ってきて無言のままピョコンと敬礼して立ち去った。取り付く島もない無いという感じだった。
遠藤少佐は石原中佐とは同郷、同幼年学校の出身であり、幼少のころから親しくしていたので、石原中佐の後を追って、廊下に呼びとめ「我々の来た理由も聞かず、ただ毛嫌いされるのはおかしいではないか。まず話し合ってください」と申し入れた。
石原中佐は「何しに来たか位は分かっている。橋本猫之助(虎をもじって軽蔑したもの)や陸軍省の属吏(西原少佐を指す)などは初めから問題にしていないが、統帥の本流に居る君までが統帥を紊して来るとは何事か」と喰ってかかった。
遠藤少佐は「私どもは決してあなた方を妨害しに着たのではありません。満州問題の解決は関東軍だけではどうにもならんでしょう。中央と心を合わせ、力をあわせてこそ始めて解決し得る問題ではありませんか。あなた方は私どもを利用したらよいではありませんか」などと石原中佐に言ったところ、嫌悪な空気も和らいだ。
「将軍の遺言・遠藤三郎日記」(毎日新聞社)によると、満州事変の発端、奉天・柳条溝の満鉄線爆破事件も中国側を攻撃する口実作りだった。
関東軍の板垣征四郎、石原莞爾の両参謀らが策を練り、今田新太郎大尉が爆薬を用意し、河本末守中尉が仕掛けたといわれている。
著者の宮武剛氏が戦後、八十七歳の片倉衷元陸軍少将にインタビューした時、片倉は「本庄繁軍司令官と翌十九日、奉天へ行くと今田が『敵の演習命令です』と証拠書類を提出しかけた。それが十八日じゃなく、なんと十九日付なんだ。俺が気づき九の数字だけマッチで焼かせた」と語った。
石原から「満州の王様」と皮肉交じりに命名された片倉大尉(当時)は、興味深いエピソードも語っている。
「今田大尉がノイローゼになったんだ。仕方なく内地に転任させた。あの人は十八日の夜北大営を急襲し(張学良の命令で)ほとんど無抵抗の支那兵を斬った。抵抗しない人間を斬ると印象に残るもんだ。幻想に襲われて夜眠れない~修養が足りないんだ」。
昭和6年11月3日、満州事変視察行から帰った遠藤少佐は直ちに東京・三宅坂の参謀本部へ出動する。浅川大尉から遠藤少佐の出したチチハル出兵の意見具申が関東軍と協議したものであると参某本部は見た。つまり石原とグルになって出兵を策したと見たのである。
遠藤少佐は今村均作戦課長から「すっかりミイラ取りがミイラになったじゃないか。当分の間、仕事せんでいい」と言われた。
ところが荒木陸相、真崎甚三郎参謀次長のいわゆる皇道派が実権を握ると、満州国建国へ突っ走る関東軍への批判は急速に賞賛へ変わった。
昭和7年2月8日、今村作戦課長は辞めさせられ、代わりに小畑敏四郎大佐が作戦課長に就任した。この日の日記に遠藤は「理由は解らずも国家多事の際、第一部の要職にある者を交替せしむる如きは国軍のため決して採るべからず所にして遺憾この上なし」と記している。
その夜、遠藤少佐は新宿の宝亭で今村の送別の宴を持った。だが陸軍の良識派とされる今村を尊敬しながらも、どこか、そりが合わず、遠藤は戦後も日中国交回復運動などで、今村と激しく論争した。
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、満州事変勃発後の昭和7年2月ジュネーブから「国際連盟は3月3日、日支両軍に停戦を勧告する」という極秘電報が参謀本部に入った。
参謀本部は3月3日に停戦勧告が発せられる前に支那軍を蘇州付近の湿地帯まで撃退し、日本軍勝利の下で自主的に停戦し得れば問題は無いが、戦況不利な状態で停戦すれば支那軍の勝利が宣伝され、日本軍の名声は失墜し、満州問題の解決も困難になると考えた。
そこで参謀本部の小畑作戦課長はさらに二個師団を増派して3月3日以前に敵を撃退する必要ありと荒木陸軍大臣にのみ内諾を得て、その計画を秘密裏に立案するよう参謀本部部員の遠藤三郎少佐に命じた。
遠藤少佐は石原中佐とは同郷、同幼年学校の出身であり、幼少のころから親しくしていたので、石原中佐の後を追って、廊下に呼びとめ「我々の来た理由も聞かず、ただ毛嫌いされるのはおかしいではないか。まず話し合ってください」と申し入れた。
石原中佐は「何しに来たか位は分かっている。橋本猫之助(虎をもじって軽蔑したもの)や陸軍省の属吏(西原少佐を指す)などは初めから問題にしていないが、統帥の本流に居る君までが統帥を紊して来るとは何事か」と喰ってかかった。
遠藤少佐は「私どもは決してあなた方を妨害しに着たのではありません。満州問題の解決は関東軍だけではどうにもならんでしょう。中央と心を合わせ、力をあわせてこそ始めて解決し得る問題ではありませんか。あなた方は私どもを利用したらよいではありませんか」などと石原中佐に言ったところ、嫌悪な空気も和らいだ。
「将軍の遺言・遠藤三郎日記」(毎日新聞社)によると、満州事変の発端、奉天・柳条溝の満鉄線爆破事件も中国側を攻撃する口実作りだった。
関東軍の板垣征四郎、石原莞爾の両参謀らが策を練り、今田新太郎大尉が爆薬を用意し、河本末守中尉が仕掛けたといわれている。
著者の宮武剛氏が戦後、八十七歳の片倉衷元陸軍少将にインタビューした時、片倉は「本庄繁軍司令官と翌十九日、奉天へ行くと今田が『敵の演習命令です』と証拠書類を提出しかけた。それが十八日じゃなく、なんと十九日付なんだ。俺が気づき九の数字だけマッチで焼かせた」と語った。
石原から「満州の王様」と皮肉交じりに命名された片倉大尉(当時)は、興味深いエピソードも語っている。
「今田大尉がノイローゼになったんだ。仕方なく内地に転任させた。あの人は十八日の夜北大営を急襲し(張学良の命令で)ほとんど無抵抗の支那兵を斬った。抵抗しない人間を斬ると印象に残るもんだ。幻想に襲われて夜眠れない~修養が足りないんだ」。
昭和6年11月3日、満州事変視察行から帰った遠藤少佐は直ちに東京・三宅坂の参謀本部へ出動する。浅川大尉から遠藤少佐の出したチチハル出兵の意見具申が関東軍と協議したものであると参某本部は見た。つまり石原とグルになって出兵を策したと見たのである。
遠藤少佐は今村均作戦課長から「すっかりミイラ取りがミイラになったじゃないか。当分の間、仕事せんでいい」と言われた。
ところが荒木陸相、真崎甚三郎参謀次長のいわゆる皇道派が実権を握ると、満州国建国へ突っ走る関東軍への批判は急速に賞賛へ変わった。
昭和7年2月8日、今村作戦課長は辞めさせられ、代わりに小畑敏四郎大佐が作戦課長に就任した。この日の日記に遠藤は「理由は解らずも国家多事の際、第一部の要職にある者を交替せしむる如きは国軍のため決して採るべからず所にして遺憾この上なし」と記している。
その夜、遠藤少佐は新宿の宝亭で今村の送別の宴を持った。だが陸軍の良識派とされる今村を尊敬しながらも、どこか、そりが合わず、遠藤は戦後も日中国交回復運動などで、今村と激しく論争した。
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、満州事変勃発後の昭和7年2月ジュネーブから「国際連盟は3月3日、日支両軍に停戦を勧告する」という極秘電報が参謀本部に入った。
参謀本部は3月3日に停戦勧告が発せられる前に支那軍を蘇州付近の湿地帯まで撃退し、日本軍勝利の下で自主的に停戦し得れば問題は無いが、戦況不利な状態で停戦すれば支那軍の勝利が宣伝され、日本軍の名声は失墜し、満州問題の解決も困難になると考えた。
そこで参謀本部の小畑作戦課長はさらに二個師団を増派して3月3日以前に敵を撃退する必要ありと荒木陸軍大臣にのみ内諾を得て、その計画を秘密裏に立案するよう参謀本部部員の遠藤三郎少佐に命じた。