陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

297.鈴木貫太郎海軍大将(17)鈴木侍従長はいつしか「君側の奸」の筆頭になった

2011年12月02日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 “日嗣の皇子(ひつぎのみこ)”として育てられ、あらゆる帝王教育を受け、忠実に、几帳面に、心からその教えを守る天皇にあっては、イギリス式君主たらんとするために、自分の意思を表明してはならぬいことであった。

 たとえ軍部の暴走をきびしく処罰することが理にかなうものであっても、立憲君主としてとるべき道を踏み外してはならないのだ。意思を通すことは、大元帥の私兵になる。

 天皇は後に鈴木侍従長に言った。「あの時は自分も若かったから……」。これ以後は、次第に政府や軍部の決定に「不可」をいわぬ「沈黙する天皇」を自らつくりあげていく。

 この事件は鈴木侍従長が、天皇のそばにあって、党派的に動いている存在と誤解を生み、非難されるきっかけをつくった。

 天皇と首相の「中間に立つ」ことを頼まれたとき、「侍従長とはそういう位置にない」と鈴木が言ったことが正しいにせよ、宮廷外の者から見れば、侍従長とは潜在的な政治的調停者として見られていたのである。

 鈴木貫太郎という人間がそのように権謀術数(けんぼうじゅっすう)を巧みにする人ではないことは、明らかなことなのだが、伝聞による誤解が誤解を生み、鈴木侍従長はいつしか「君側の奸」の筆頭になった。

 昭和五年三月十四日、ロンドン軍縮会議に出席していた若槻礼次郎前首相から「これで妥結してよいか」という政府の訓令を求める電報が届いた。

 日本全権団は、日本政府から「三大原則」の訓令を受けていた。それは国防の安全を確保するために「対米補助艦総括して七割、重巡洋艦七割、潜水艦七万八千トン」をどんなことがあっても要求するというものであった。

 だが、ロンドン会議は難航した。そして三月中旬に、最終的妥協案がアメリカから提案された。総括六割九分七厘五毛、重巡洋艦六割、潜水艦五万二千トン均一というものであった。

 首席全権・若槻は悩んだ。七割にはわずかに足らない。だが、アメリカが七割を認めれば、米国世論が騒ぎ、米議会を通過しないだろう。会議をこわさぬためにも、日本がこのくらいの譲歩をすべきであろうと決心した。

 海軍省はひとますこれで協定すべきである、という統一見解をとった。だが軍令部は承知しなかった。

 加藤寛治軍令部長は「「わが海軍の死活をわかつ絶対最低率を確保できぬなら、この協定は断乎破棄するほかはない」と、浜口雄幸首相に強硬に申し入れた。

 さらに海軍の長老である東郷平八郎元帥が、「要するに七割なければ国防上安心できないのであるから、一分や二分というちいさなかけ引きは無用である。先方が承知しなければ断乎として引き揚げるのみ。この態度を強く全権団に言ってやれ」と強硬意見を吐くに至り、海軍は二つに割れた。

 海軍省の次官・山梨勝之進中将(海兵二五次席・海大五次席・大将・学習院長)と軍務局長・堀悌吉少将(海兵三二首席・海大一六首席・中将・日本飛行機社長・浦賀ドック社長)は、軍令部の強硬論の中にあって、会議成立のため海軍部内を取りまとめようと必至に奔走した。

 そして三月十六日軍事参議官・岡田啓介大将(海兵一五・海大二・大将・海相・首相)を中心に、加藤寛治軍令部長、山梨次官、末次信正次長(海兵二七・海大七・大将・内務大臣)、堀軍務局長ら省部の最高幹部が参集し、ついに兵力量の決定権が政府にあることを言外に認めた。

この海軍の決定を背景に、浜口首相は政府の回訓案をまとめ、三月二十七日参内して天皇に単独拝謁し、天皇が会議の分裂を欲していないことを確かめ、その肝を決めた。

 加藤軍令部長らの強硬派は、憲法第十一条の「天皇は陸海軍を統帥す」と第十二条の「天皇は陸海軍の編制および常備兵額を定む」をタテに、兵力量の決定は統帥事項であるから、軍令部の同意を要すると主張した。

 だが、第十一条の統帥大権は、第十二条の内閣の輔弼事項である編制権にまで及ぶものではない、という解釈をとり、それにより軍令部の主張を押しのけようと浜口首相は決意した。

 軍令部は政府の強硬姿勢に激昂した。岡田大将が加藤部長を説得したが、加藤部長は単独上奏の決意を述べ、「いざとなればハラを切る」とまで口走った。

 浜口首相は昭和五年四月一日に、この回訓案を閣議決定し、直ちに上奏ご裁可を仰ぎたい旨を、前日に鈴木侍従長に通じ、そして午後四時拝謁の許しが出た。

 ところが、加藤軍令部長が、四月一日の浜口首相上奏前に拝謁したい旨を、奈良武次侍従武官長を通し、願い出てきた。こうして政治の争いが宮中に持ち込まれた。