陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

352.辻政信陸軍大佐(12)作戦参謀が死線から帰って報告するのにパジャマ姿とは何ですか

2012年12月21日 | 辻政信陸軍大佐
 辻中佐の意見をとりあげた第五師団長・松井太久郎中将(陸士二二・陸大二九・満州国軍最高軍事顧問・中将・第五師団長・南京政府最高軍事顧問・支那派遣軍総参謀長・第一三軍司令官)は、師団参謀に、約百キロ後方のタイピンにいる第二五軍司令部に電話をかけさした。

 だが、第二五軍高級参謀・池谷半二郎大佐(陸士三三恩賜・陸大四一恩賜・第二五軍作戦課長・整備局交通課長・第一方面軍高級参謀・第三軍参謀長・少将)は「第五師団は、万難を拝して海上機動を続行し、渡辺支隊を、敵後方のクワラセランゴール方面に進出せしめよ」という趣旨の軍命令を伝えた。

 「百キロも後方で屠蘇を飲んでいて、第一線の状況がわかっておらん」とカチンときた辻中佐は、自分で第二五軍参謀長・鈴木宗作中将(陸士二四恩賜・陸大三一首席・参謀本部第三部長・中将・第二五軍参謀長・運輸本部長兼船舶司令官・第三五軍司令官・戦死・大将)に電話をかけ、渡辺支隊の陸上転用をつよく要求した。

 だが、鈴木中将は応じなかった。これでは松井師団長や幕僚に対して辻中佐の面目丸つぶれである。業を煮やした辻中佐は「作戦主任としてご信用にならないなら、今すぐ辞めさせて下さい」と、反抗した。

 温厚な鈴木中将は、穏やかにたしなめたが、辻中佐は承知しなかった。結局「軍命令は変更しない」という鈴木中将の結論で電話は切られた。

 辻中佐は怒り心頭に達し、タイピンへ自動車を飛ばした。一月二日午前二時過ぎ、第二五軍司令部に着いた。

 ただちに全幕僚が参謀長室に集まり、辻中佐の意見を聞くことになった。だが、並み居る幕僚のうち、一人として辻中佐の意見に賛成する者はいなかった。

 辻中佐は、たまりかねて「作戦主任を辞めさせてもらいたい」と申し出た。それでも主張は通らなかった。

 不貞腐れた辻中佐はそれから三日間仕事をしなかった。だが、辻中佐が、気に病んだカンパルの英軍も翌一月二日に陥落した。

 鈴木中将や池谷大佐から話を聞いた、山下奉文軍司令官は、一月三日の日記に次のように記している。

 「辻中佐(政信・参謀)第一線より帰り私見を述べ、色々の言ありしという。此男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也。小才者多く、がっちりしたる人物乏しきに至りたるはまた教育の罪なり。特に陸軍の教育には、表面上端正なる者を用いて小才を愛するゆえに、年とともにこの種の男増加するには困りたるものなり」。

 「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、このマレー作戦における辻政信中佐の「作戦主任を辞めさせてもらいたい」事件について、鈴木宗作元中将の回想が記されている。

 著者の堀江芳孝氏(陸士四八・陸大五六)は、昭和十七年陸大を卒業し、昭和十八年元旦から広島市宇品の船舶司令部勤務となり、陸軍船二三〇万トンの運航主任参謀の職に就いた。

 昭和十八年三月船舶司令部に新司令官として鈴木宗作中将が着任した。鈴木中将は堀江少佐と同期生が娘婿だった。

 その由で、鈴木中将は毎晩堀江少佐を極めて親しみを以って指導し、夜は共に夕食をして、夜遅くまで陸軍部内の話をした。

 その陸軍部内の話で、鈴木中将は、「陸軍の軍紀の頽廃と紊乱(びんらん)の元兇は下克上の本山石原莞爾と辻政信だ」と断じた。

 「彼らをのさばらして置く限り、陸軍は滅亡する他に道はない」とも言った。

 例えばマレーで、辻は第一線に出て行って、自ら小部隊を指揮したり、これこれの軍命令を出して欲しいと要求してくる。その時のことを鈴木中将は次のように堀江少佐に語った。

 「ある時、参謀長として辻が希望してきた命令案を否認したところ、真夜中に僕を叩き起こした。パジャマ姿で出たところ、作戦参謀が死線から帰って報告するのにパジャマ姿とは何ですか。軍服に着換えて報告を受けるのが上官たる軍人の当然の姿ではありませんかと喰ってかかる」

 「同僚じゃないか、服装などどうでもいいじゃないかと言ったところ、この辻を辞めさせて下さいと意気まく」