陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

358.辻政信陸軍大佐(18)また電報が届いた。『貴官ヲ以後軍神ト称セシム』

2013年02月01日 | 辻政信陸軍大佐
 丸山氏は当時軍医中尉で、水上少将の側近だった。昆作命甲第○号のあと、戦死近しと見て、南方総軍司令官からか、あるいはもう一段上部から、暗号電報がきた。「貴官ヲ二階級特進セシム」。

 このことについて、「月白の道」(丸山豊・創言社)には次のように記してある。

 「水上大将という栄光のうしろにある、さむざむとしたものを閣下は見抜いておられた。閣下の心の底で、ある決断のオノがふり下ろされた。『妙な香典がとどきましたね』と、にっこりされた」

 「二日後に、また電報が届いた。『貴官ヲ以後軍神ト称セシム』。軍神の成立の手のうちが見えるというものである」

 「閣下はこんども微苦笑された。『へんな弔辞がとどきましたね』。名誉ですとか武人の本懐ですとかいう、しらじらしい言葉はなかった。私たちが信じてきたとおりの閣下であった」。

 以上が、丸山豊氏の回想に出てくる、水上少将の心境の描写である。ところが、「二階級特進」や「軍神ト称セシム」などの電報は、戦後の調査でも、公式記録、発信人とも不明だという。

 だが、電報の発信地がラインデンであることから、作戦参謀・辻政信大佐が勝手に打ったと見られる推論もある。ノモンハン事件で、軍司令官の名をかたり電報を打った前科があるからだ。

 昭和十九年八月四日、水上少将の状況が、「月白の道」に次のように記してある。

 「閣下がまっすぐにのびた一本の樹木を背にして、地面にケイタイ天幕をひろげ、その上にどっかと腰をおろされると、横には当番兵二名がつきそった」

 「突然銃声を聞いた。とっさには『まただれか自決したな』と気にもとめなかったが、つぎの瞬間、いまの銃声が閣下の場所だと気づいて、バネのようにカケだしていった」

 「閣下は東北方を向いてすわったまま虫の息である。起案用紙がぬれていなかったところをみると、そのときはもう雨がやんでいたのかもしれない」

 「用紙には鉛筆がきで命令がしたためられ、書判をおしておられた。『ミートキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方ヘ転進ヲ命ズ』。

 「水上少将ハ」の電報命令を逆手にとった、水上少将の積極的な意思表示だった。日本軍には玉砕があるばかりで、最善を尽くした後、部隊が投降するというモラルは許されていなかった。

 玉砕するばかりが武人の徳ではあるまい、所詮、負けるときまった戦いなら、一死をもって、多数の将兵の生命を救う道があってもよいと考えた。かねて「雲南の乃木さん」と将兵から敬慕されていた水上少将の最後の輝きだった。

 戦後、昭和二十八年八月七日、山梨県の塩山から甲府へ向かう車中に、かつての作戦参謀である辻政信衆議院議員が乗っていた。

 同乗者の有賀茂氏(旧日川中学二十五回卒業生)の回想によると、日川高校前で、辻は「閣下は私が殺したようなものです、実に申し訳ない、私の『十五対一』で私の心を知って下さい」と言った。

 また、水上中将の生まれた塩田のを指すと、「閣下申し訳ない」と深く頭を垂れていつまでも合掌していたという。

 ところで、水上少将の次級副官・堀江屋保中尉も悲惨な運命が待ち構えていた。水上少将の遺骨とともに、軍刀、肩章、ピストルなどを八名の部下が手分けして持ち帰った。

 堀江屋中尉もその一人だった。水上少将の自決後一ヶ月、ジャングルを潜り抜け、やっと第三三軍司令部に堀江屋中尉はたどりついた。

 だが、待ち構えていた辻政信参謀は「貴様は現役将校のくせに、なぜ水上閣下のあとを追って自決しなかったのだ」と叱責され、暴力までふるわれた。

 思い余った堀江屋中尉は、その時、腹を切ろうとしたが、他の将校にさまたげられて、果たせなかった。

 辻参謀は、ミートキーナ、フーコンから脱出した兵隊を集めて、堀江屋中尉をその隊の隊長に任命し、行けば必ず死ぬと分かっている雲南の戦場へ派遣した。堀江屋中尉は昭和十九年十一月七日戦死した。