陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

74.有末精三陸軍中将(4)「仕方が無い、これからは気をつけろよ」とは内相は言わなかった

2007年08月17日 | 有末精三陸軍中将
有末精三回顧録(芙蓉書房出版)によると、昭和7年9月武藤信義大将が関東軍司令官、駐満大使、関東長官の三位一体の探題として満州国に着任した。

 昭和8年7月、関東軍から板垣少将が上京した際、柳川次官が主催で柳橋の柳光亭で晩餐会を催した。

 当時有末少佐は陸軍省副官兼大臣秘書官であったので、晩餐会に出席した。

 山岡軍務局長、山下奉文軍事課長、も出席していた。会食の最中に関東軍司令官・武藤元帥の訃報があった。

 すぐ引き揚げるべく一同は立ち上がった。廊下に出た時に、山下大佐が有末少佐に「おい」と右手で八字髭を引っ張る形をしながら「次はこれだよ」と後任司令官を林銑十郎大将と示唆した。

 大臣官邸で次官等首脳の会談の結果だろうと思った。ところが三長官の会議の結果翌日人事局長が随行して荒木大臣が内奏したのは菱刈隆大将であった。

 その時有末少佐がひそかに感じたのは、高級人事については軍事課長の山下大佐でもつんぼ座敷に置かれているのだなと思った。

 武藤元帥の葬儀は日比谷公園の音楽堂を背にして祭壇を設け、公園の広場全体を開放して行われた。

 有末少佐は葬儀の準備に多忙となった。葬儀までには一週間位準備期間があったが、気を使う諸問題が次から次に起きた。

 最初に供花の問題が起きた。上原元帥の副官岡崎清三郎中佐が有末少佐のところにわざわざ来て、元帥の意向として供花の配列位置は閣僚の上位にすると同時に榊の大きさも閣僚のものより小さくないようにとの注文だった。

 ちなみに当時は閣僚の供える榊代は一対四十円であり、元帥のそれは十五円という内規があった。

 結局榊の大きさは閣僚と同じ大きさにした。配列順位は、宮中席次は元帥と閣僚は任官新故の順によるので、問題はなかった。

 その次は着席順であった。斉藤内閣総理大臣より上席は、大勲位・山本権兵衛伯爵、西園寺公望公爵、東郷元帥の三人だった。

 ところが、三人とも高齢で健康の事もあり、代理が参列することになった。代理を認めないという宮中席次の慣例に従い、代理は第二列となった。

 従って、有末少佐は上原元帥の代理も第二列にお願いすることにして、解決した。第一列には斉藤総理大臣以下閣僚は宮中席次に従って腰掛けてもらうことにした。

 ところが、葬儀が終わって、内相の明石秘書官がやってきて、山本達雄内務大臣の榊がないと訴えた。

 そんなはずはないと思ったが、明石秘書官は温厚な老大臣からビンタをとられたと、頬をはらして涙をためての苦情だった。

 有末少佐が調べたところ、確かになかった。明石秘書官は「普通のあやまりではすまないよ」と厳重抗議であった。

 荒木陸軍大臣がわざわざ有末少佐のところに来て、「山本さんの榊がなかったらしい。何かの間違い、手落ちであったのだろう、よく調べてくれ」とのことだった。

 有末少佐が各大臣の榊の注文をメモに書きとめ助手のK中尉に渡し、清書させた。その清書の時山本内務大臣のを写し漏れたことが分かった。

 有末少佐は荒木陸軍大臣の官邸に行き報告した。いずれにしても有末少佐は自分の手落ちだと思い内相の私邸に陳謝に参りたいと申し出た。

 荒木大臣は「それが何より第一だ、直接内相に電話しておくからすぐ行け」と下命した。

 有末少佐はとるものもとりあえず、麹町三番町の土手近くの山本達雄男爵邸に向かった。

 応接間に通されると、羽織袴の老内相が待っていたとばかり着座した。有末少佐は明石秘書官には全く責任の無いこと、事情を話し、お詫びした。

 この時ばかりは「仕方が無い、これからは気をつけろよ」とは内相は言わなかった。「ただ、わたしの誠意が故元帥に通じなかったことが如何にも残念でたまらない」と繰り返すばかりで、有末少佐には取りつくしまもなかった。

 思案のあげく有末少佐が「明日の墓前祭に御墓所に三長官(陸相・参謀総長・教育総監)の根付の榊を植えさせていただく、その第四の角に閣下の根付の榊を植えさせていただきたい」とお願いしたところ、

 「それは誠に有り難い。それで私も故元帥に誠意が通じる」と機嫌が直ったという。