陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

77.有末精三陸軍中将(7) 君も辞めろ。陸軍大学の教官になって、統帥の研究をやり給え

2007年09月15日 | 有末精三陸軍中将
 「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和9年7月3日、斉藤内閣は右翼的勢力の攻勢によって倒れ、大命が岡田啓介海軍大将に降りた。

 政変はあったが、林銑十郎陸軍大将は留任し陸軍省では何ら人事異動はなかった。林大臣から「信用するから頼む」と言われ、頗る意欲的に働いていた陸相秘書官の有末少佐は、どうも林大臣と柳川平助次官の間がシックリしないのが気になって仕方がなかった。

 7月半ば頃、有末少佐は直訴のつもりで、夕刻、五番町の次官官舎に柳川次官を訪問した。柳川次官は気持ちよく有末少佐を応接間に迎えてくれた。

 有末少佐は率直に「本気で大臣閣下を御補佐ください」と訴えたところ、
柳川次官は「荒木大臣と同じように毎夕連絡御補佐申し上げているョ」と切り口上の返事だった。

 そこで有末少佐は「確かに毎夕ご連絡に官邸にお出になっているには違いありませんが、荒木大臣の頃にはいすに腰掛け何やら長いことご懇談、去年の今頃は庭で団扇をたたいて蚊を追いながら、私ども前田秘書官と二人でお羨み申し上げていたのでしたが、林大臣に対しては大臣室で直立不動の姿勢でのご報告、私ども小松秘書官(有末少佐と同期の29期)との十分な打ち合わせが出来ないほどの短い時間、お忙しそうにお帰りではありませんか」などと述べた。

 すると柳川次官は「実は、私は林大臣を人格的に承服、尊敬できないので、荒木閣下の時のように行きかねるよ」と率直な言葉で答えた。

 有末少佐は「大臣と次官が一体のお気持ちになれないなら、いっそ八月の異動期にご転任なされては如何でしょう」と言うと、

 柳川次官は「私もそう思うのだが。しかし真崎さんがもう少しおれとも言われるしナァ」と感嘆を洩らした。

 これに対し有末少佐は「しかし、それは筋が違うじゃありませんか。お考え直しなされて、引き続き大臣を御補佐くだされ、私たちをお導きください」と再び懇願した。

 暫く話がとぎれたあと柳川次官は「ヨシ辞めよう」とキッパリ言った。そして
「君も辞めろ。陸軍大学の教官になって、統帥の研究をやり給え」と言った。

 有末少佐は「二ヶ月前大臣から、信頼するから嫌でもあろうが補佐してくれ、と言われたばかりであり、私からお願いして転出することはできません」と答えた。

 それから半月、昭和9年8月の異動で、柳川次官は第一師団長に転出した。8月の異動では秦真次憲兵司令官も第二師団長に転出した。

 この二人は皇道派であった。林陸軍大臣は皇道派の重鎮二人を、陸軍省から追い出したのである。

 この時同時に士官学校幹事・東條英機少将が歩兵第二十四旅団長(小倉)に転出したが、くびの前提としての追放であると言われたが、柳川、秦両氏の転出の代償であるとの噂も立った。

 昭和10年になると粛軍に関する意見書が公然とばら撒かれ、現陸軍省幹部、ことに永田少将等軍務局をいわゆる統制派と決め付けて怪文書が横行し始めた。

 これに反発して、三宅坂周辺では粛軍人事として8月異動における真崎教育総監更迭の噂が目立ってきた。

 昭和10年7月初め、軍事参議官の松井岩根大将が大臣官邸に来て、有末少佐と小松秘書官にご馳走しようと招きを受けた。

 新橋の料亭湖月に行き、酒がはずんだ。やがて松井大将は「わしを陸軍大臣にすれば小磯を次官に、建川を次長にして思い切り粛軍人事をやるがネエ」と至極平然と話した。

 すかさず有末少佐が「とんでもない。今、林大臣が異動案で考えておられるのは、察するに閣下の予備役編入じゃありませんか?」と言い、小松秘書官が相槌を打つという始末だった。

 すると松井大将は「そうか、辞めてもよい、しかし真崎と一緒にならだ、大臣にもそう言ってくれ、真崎が残ってわしだけが辞めるのはどうかなァ」と独り言のようにつぶやいた。

 林大臣に有末少佐がこのことを報告すると、大臣は「(真崎に)大将を辞めてもらう時には、面と向かって辞職を勧告せねばならず、それが嫌でなア」と嘆声を洩らした。