8月28日午前八時、厚木飛行場の西南方向の一点から爆音が聞こえてきた。飛行場に設営された天幕の指揮所に集まっていた有末中将ら委員が仰ぎ見ると、三機のC46輸送機が次々に厚木飛行場の滑走路に進入してきた。進駐軍先遣隊の輸送機だった。
しかも有末らが予定していた向かい風の着陸方向とは正反対の追い風に乗って、次々に着陸を始めた。普通飛行機は向かい風に対して滑走路に着陸するのだが、警戒をして裏をかくように、わざと難しい追い風で着陸したのだ。
着陸機からは、続々と兵士やジープなど車両が降りてきたので、有末中将らは出迎えた。
先遣隊の米軍将校は大佐が数名、佐官、尉官などで構成されていたが、背の高いハンサムなチァーレス・テンチ大佐が先遣隊指揮官の隊長だった。当時四十歳そこそこで、マッカーサーの信任厚い士官だった。
この背の高いテンチ隊長と小銃を肩にかけた副官のパワーズ少佐の前に行き、小柄な五十過ぎの有末中将は直立不動で敬礼を行った。
米軍や日本の新聞記者たちはその場面を写真にとり、翌日の新聞に大きく掲載された。その姿はまるで大人の前に小学生が敬礼をしているようだったので有末中将は、怒って、新聞社を差し止めにした。だが、大人気ないと思って、すぐに解除した。
ところが、有末中将が敬礼をしたあと、「遠路お役目ご苦労に存じます」と挨拶し、側いた通訳の大竹少尉が通訳する暇もなく、また、有末中将の後ろに並んでいる部下の紹介にも、テンチ大佐は無頓着で、緊張した顔のままツカツカと天幕に向かって進んでいった。
慌てた有末中将は、急いで天幕内のソファーにテンチ大佐に座ってもらい、いちいち部下の委員を呼んで紹介した。すると今度は進駐軍のスタッフの紹介を受け、大佐が三人紹介された。
有末中将とテンチ大佐はソファに座って会話を始めたが、緊張したテンチ大佐の気分はどう見てもぎこちない雰囲気だった。
二人の卓に給仕がコップにジュースを入れて持ってきた。その給仕は臨時仕立ての給仕だった。中学生にだぶだぶの白服を着せたものであった。テンチ隊長は目の前に出されたジュースを手にしなかった。有末中将がいくらすすめても飲もうとしなかった。
有末中将はそのコップを下げて、二杯目のコップを差し出したが、それにも口を着けなかった。有末中将は二杯目を自ら飲んで、三杯目を注文してテンチ大佐に差し出したところ、彼はジュースを鼻のところに持っていき、二三度臭いをかいで、そのあと、ようやく飲んだ。
毒でも入っているのではないかと用心したに違いなかった。敵地に乗り込むときの用心深さからだった。
有末中将は葉巻を出して、テンチ大佐にすすめたが「煙草は吸わない」と断られた。それで有末中将は自分が葉巻を吸うことの許しを乞うたところ、テンチ大佐はすばやく卓上のマッチをすって火を着けてくれた。
有末中将はテンチ大佐を宿舎に案内した。その後打ち合わせを重ねるうちに、テンチ大佐の気持ちもほぐれて、お互い意思の疎通がスムーズになった。
その後有末中将は、とどこおりなくマッカーサー元帥と進駐軍本隊を迎える準備をテンチ大佐とともに行い、重大任務を果たした。
テンチ大佐は有末中将のどこまでも誠意ある対応を理解して、非常に感謝し、マッカーサー司令部から「perfect satisfactory(完全なる満足)」という感謝賞賛の電報を受け取ったと、嬉しそうに有末中将に伝えた。
短期間ではあったがテンチ大佐と有末中将は強い信頼関係で結ばれ、マッカーサー元帥からは三回も「perfect satisfactory(完全なる満足)」の電報が発せられた。
最後にはテンチ大佐が「マッカーサー元帥はいかなるレセプションも受けぬ。ただジェネラル・アリスエ、オンリーの出迎えは受ける」との電報を受け取ったと有末中将に話した。
テンチ大佐は任務を終えると、次の任務の米国国防省(ペンタゴン)の課長に就任するため、8月31日、日本を離れた。
テンチ大佐は有末中将にチョコレート、煙草、石鹸など置き土産と言って別れに持ってきてくれた。あまりの早い別れに有末中将はとまどったが、そのこまやかな人情と心遣いに頭が下がった。
戦後も毎年、クリスマスカードのやりとりなど、有末中将とテンチ大佐との交友は続き、テンチ大佐は昭和59年、80歳になる自分の写真を有末中将に送っている。
<有末精三陸軍中将プロフィル>
有末精三陸軍中将は明治28年5月22日北海道生まれ。父、孫太郎は陸軍工兵大尉。精三の弟、次は陸軍中将、四郎は陸軍軍医大尉。精三の妻、のぶ子は村田信乃陸軍中将の娘。
明治45年仙台幼年学校、大正6年陸軍士官学校29期(恩賜の軍刀拝受)、大正13年陸軍大学校36期(恩賜の軍刀拝受)。昭和元年歩兵大尉。
昭和3年イタリア駐在。4年ボローニャ歩兵第三十五連隊付、イタリア陸軍大学入学。6年歩兵少佐、イタリア陸軍大学卒。
昭和6年歩兵第五連隊大隊長。7年陸相副官・秘書官。10年軍事外交班長。11年歩兵中佐。イタリア大使館付武官。
昭和12年航空兵中佐、13年航空兵大佐。14年軍務課長。軍務課長時代に阿部内閣の誕生に尽力した。16年北支那方面軍参謀副長。陸軍少将。
昭和17年8月参謀本部第二部長。20年陸軍中将。
昭和20年8月24日対連合軍連絡委員長(厚木委員長)。予備役。21年進駐軍顧問。
昭和34年社団法人日本郷友連盟理事。36年同連盟副理事長。38年同連盟副会長。45年同連盟会長。
平成4年2月14日死去。
しかも有末らが予定していた向かい風の着陸方向とは正反対の追い風に乗って、次々に着陸を始めた。普通飛行機は向かい風に対して滑走路に着陸するのだが、警戒をして裏をかくように、わざと難しい追い風で着陸したのだ。
着陸機からは、続々と兵士やジープなど車両が降りてきたので、有末中将らは出迎えた。
先遣隊の米軍将校は大佐が数名、佐官、尉官などで構成されていたが、背の高いハンサムなチァーレス・テンチ大佐が先遣隊指揮官の隊長だった。当時四十歳そこそこで、マッカーサーの信任厚い士官だった。
この背の高いテンチ隊長と小銃を肩にかけた副官のパワーズ少佐の前に行き、小柄な五十過ぎの有末中将は直立不動で敬礼を行った。
米軍や日本の新聞記者たちはその場面を写真にとり、翌日の新聞に大きく掲載された。その姿はまるで大人の前に小学生が敬礼をしているようだったので有末中将は、怒って、新聞社を差し止めにした。だが、大人気ないと思って、すぐに解除した。
ところが、有末中将が敬礼をしたあと、「遠路お役目ご苦労に存じます」と挨拶し、側いた通訳の大竹少尉が通訳する暇もなく、また、有末中将の後ろに並んでいる部下の紹介にも、テンチ大佐は無頓着で、緊張した顔のままツカツカと天幕に向かって進んでいった。
慌てた有末中将は、急いで天幕内のソファーにテンチ大佐に座ってもらい、いちいち部下の委員を呼んで紹介した。すると今度は進駐軍のスタッフの紹介を受け、大佐が三人紹介された。
有末中将とテンチ大佐はソファに座って会話を始めたが、緊張したテンチ大佐の気分はどう見てもぎこちない雰囲気だった。
二人の卓に給仕がコップにジュースを入れて持ってきた。その給仕は臨時仕立ての給仕だった。中学生にだぶだぶの白服を着せたものであった。テンチ隊長は目の前に出されたジュースを手にしなかった。有末中将がいくらすすめても飲もうとしなかった。
有末中将はそのコップを下げて、二杯目のコップを差し出したが、それにも口を着けなかった。有末中将は二杯目を自ら飲んで、三杯目を注文してテンチ大佐に差し出したところ、彼はジュースを鼻のところに持っていき、二三度臭いをかいで、そのあと、ようやく飲んだ。
毒でも入っているのではないかと用心したに違いなかった。敵地に乗り込むときの用心深さからだった。
有末中将は葉巻を出して、テンチ大佐にすすめたが「煙草は吸わない」と断られた。それで有末中将は自分が葉巻を吸うことの許しを乞うたところ、テンチ大佐はすばやく卓上のマッチをすって火を着けてくれた。
有末中将はテンチ大佐を宿舎に案内した。その後打ち合わせを重ねるうちに、テンチ大佐の気持ちもほぐれて、お互い意思の疎通がスムーズになった。
その後有末中将は、とどこおりなくマッカーサー元帥と進駐軍本隊を迎える準備をテンチ大佐とともに行い、重大任務を果たした。
テンチ大佐は有末中将のどこまでも誠意ある対応を理解して、非常に感謝し、マッカーサー司令部から「perfect satisfactory(完全なる満足)」という感謝賞賛の電報を受け取ったと、嬉しそうに有末中将に伝えた。
短期間ではあったがテンチ大佐と有末中将は強い信頼関係で結ばれ、マッカーサー元帥からは三回も「perfect satisfactory(完全なる満足)」の電報が発せられた。
最後にはテンチ大佐が「マッカーサー元帥はいかなるレセプションも受けぬ。ただジェネラル・アリスエ、オンリーの出迎えは受ける」との電報を受け取ったと有末中将に話した。
テンチ大佐は任務を終えると、次の任務の米国国防省(ペンタゴン)の課長に就任するため、8月31日、日本を離れた。
テンチ大佐は有末中将にチョコレート、煙草、石鹸など置き土産と言って別れに持ってきてくれた。あまりの早い別れに有末中将はとまどったが、そのこまやかな人情と心遣いに頭が下がった。
戦後も毎年、クリスマスカードのやりとりなど、有末中将とテンチ大佐との交友は続き、テンチ大佐は昭和59年、80歳になる自分の写真を有末中将に送っている。
<有末精三陸軍中将プロフィル>
有末精三陸軍中将は明治28年5月22日北海道生まれ。父、孫太郎は陸軍工兵大尉。精三の弟、次は陸軍中将、四郎は陸軍軍医大尉。精三の妻、のぶ子は村田信乃陸軍中将の娘。
明治45年仙台幼年学校、大正6年陸軍士官学校29期(恩賜の軍刀拝受)、大正13年陸軍大学校36期(恩賜の軍刀拝受)。昭和元年歩兵大尉。
昭和3年イタリア駐在。4年ボローニャ歩兵第三十五連隊付、イタリア陸軍大学入学。6年歩兵少佐、イタリア陸軍大学卒。
昭和6年歩兵第五連隊大隊長。7年陸相副官・秘書官。10年軍事外交班長。11年歩兵中佐。イタリア大使館付武官。
昭和12年航空兵中佐、13年航空兵大佐。14年軍務課長。軍務課長時代に阿部内閣の誕生に尽力した。16年北支那方面軍参謀副長。陸軍少将。
昭和17年8月参謀本部第二部長。20年陸軍中将。
昭和20年8月24日対連合軍連絡委員長(厚木委員長)。予備役。21年進駐軍顧問。
昭和34年社団法人日本郷友連盟理事。36年同連盟副理事長。38年同連盟副会長。45年同連盟会長。
平成4年2月14日死去。