「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和2年、小磯国昭大佐が軍務局第一課長で、小磯大佐が統裁する参謀演習旅行に有末大尉は補助官として参画した。
二週間ばかり東北地方に出張した折、予算を超過した。三千円のところが、五百円ばかり足を出したのだ。
演習費予算の配当や支弁は演習課の担任だったので、その補填について第一課高級課員の今村均中佐が、演習課高級課員の阿南惟幾中佐のところへ願い出た。
追加承認決済のため、阿南中佐とともに柳川課長の室に行ったとき、柳川課長は皮肉たっぷりに「小磯は豪傑だから尻拭いをしてやれよ」と一言、決裁書に捺印したという。
この時分から「小磯、柳川両氏は、性格上そりの合わなかったことは偽らざる私の感想である」と有末精三中将は記している。
昭和7年、小磯国昭陸軍次官が関東軍参謀長として赴任したあと、柳川平助中将が陸軍次官に就任した。二人とも陸士12期の同期生である。
陸士12期は杉山元元帥、畑俊六元帥、小磯国昭大将、柳川平助中将、香椎浩平中将、秦真次中将など多士済々の軍人を輩出している。
昭和7年、有末少佐が陸軍大臣秘書官に着任した頃、省内若手将校間の噂では、前陸軍次官の小磯中将は、口八丁、手八丁、それに大の酒豪で、酒席が好きで宴席ではお得意の美声で自作の鴨緑江節を良く聞かされる、とのことだった。
これに反し、現陸軍次官の柳川中将は大の宴会嫌い。したがってやむを得ない場合は以外は、多くの場合陸軍大臣官邸で、もっとも人数の関係や対地方関係で、外でやらねばならない時は、戸山学校(庭園共)や偕行社か、陸海軍将校集会所を利用していたという。
昭和8年秋、小磯関東軍参謀長が上京するというので労をねぎらうべく、陸軍次官の主催で歓迎の会食を準備しようと、陸軍大臣秘書官の有末少佐は軍務局長の山岡重厚少将に相談した。
山岡軍務局長は無骨一辺の人で、刀剣が趣味で陸軍軍刀制式の変更、靖国神社境内に刀剣鍛錬場(刀鍛冶場)を設けたり、柳川次官ほどではないが、やはり宴会嫌いであった。
その山岡軍務局長は有末少佐に「小磯さんの歓迎じゃ新喜楽あたりでやらん訳にはいかんじゃろう」と告げた。有末少佐は「次官閣下がやかましいから」と山岡局長に助言を頼んだ。
翌日、有末少佐が柳川次官に小磯中将の歓迎計画について御意図を伺いに行った処、「君は山岡に応援を頼んだナァ」「仕方がないから新喜楽あたりでやってもよいが、とにかく長夜宴なぞは考えものだぞ」と一本釘を刺された。
歓迎会当日、新喜楽のおかみさんが鴨緑江節の得意な小磯参謀長のファンの老芸者連を手配してくれた。
いよいよ歓迎会になってみると、主人たる柳川次官は、相変わらず無口、盃を手にせず、山岡軍務局長もあまり話がなく、主賓の小磯参謀長もあまりはしゃがず、いわばお通夜のような気分だった。
拓務次官の河田烈氏から、二次会に小磯参謀長を近くの料亭「とんぼ」でお待ちしているとの話であったので、主人たる柳川次官は失礼して退席した。
柳川次官は料理屋の宿車には乗らず、陸軍省の自動車も断り、タクシーも嫌いで、拳(こぶし)のついた太いステッキを振り回しながら徒歩で帰邸した。有末少佐は次官官邸まで一緒にお伴をして送り届けた。
そのあと、タクシーをひろって二次会場に駆けつけた。小磯参謀長は機嫌が直って大いにメートルを挙げ、得意の唄も出た。有末少佐は一安心した。
昔から同期生でありながら、なんとなくギクシャクして所謂肌の合わない小磯、柳川両氏の間柄であったことは、この時のことからでも明白であった。
二週間ばかり東北地方に出張した折、予算を超過した。三千円のところが、五百円ばかり足を出したのだ。
演習費予算の配当や支弁は演習課の担任だったので、その補填について第一課高級課員の今村均中佐が、演習課高級課員の阿南惟幾中佐のところへ願い出た。
追加承認決済のため、阿南中佐とともに柳川課長の室に行ったとき、柳川課長は皮肉たっぷりに「小磯は豪傑だから尻拭いをしてやれよ」と一言、決裁書に捺印したという。
この時分から「小磯、柳川両氏は、性格上そりの合わなかったことは偽らざる私の感想である」と有末精三中将は記している。
昭和7年、小磯国昭陸軍次官が関東軍参謀長として赴任したあと、柳川平助中将が陸軍次官に就任した。二人とも陸士12期の同期生である。
陸士12期は杉山元元帥、畑俊六元帥、小磯国昭大将、柳川平助中将、香椎浩平中将、秦真次中将など多士済々の軍人を輩出している。
昭和7年、有末少佐が陸軍大臣秘書官に着任した頃、省内若手将校間の噂では、前陸軍次官の小磯中将は、口八丁、手八丁、それに大の酒豪で、酒席が好きで宴席ではお得意の美声で自作の鴨緑江節を良く聞かされる、とのことだった。
これに反し、現陸軍次官の柳川中将は大の宴会嫌い。したがってやむを得ない場合は以外は、多くの場合陸軍大臣官邸で、もっとも人数の関係や対地方関係で、外でやらねばならない時は、戸山学校(庭園共)や偕行社か、陸海軍将校集会所を利用していたという。
昭和8年秋、小磯関東軍参謀長が上京するというので労をねぎらうべく、陸軍次官の主催で歓迎の会食を準備しようと、陸軍大臣秘書官の有末少佐は軍務局長の山岡重厚少将に相談した。
山岡軍務局長は無骨一辺の人で、刀剣が趣味で陸軍軍刀制式の変更、靖国神社境内に刀剣鍛錬場(刀鍛冶場)を設けたり、柳川次官ほどではないが、やはり宴会嫌いであった。
その山岡軍務局長は有末少佐に「小磯さんの歓迎じゃ新喜楽あたりでやらん訳にはいかんじゃろう」と告げた。有末少佐は「次官閣下がやかましいから」と山岡局長に助言を頼んだ。
翌日、有末少佐が柳川次官に小磯中将の歓迎計画について御意図を伺いに行った処、「君は山岡に応援を頼んだナァ」「仕方がないから新喜楽あたりでやってもよいが、とにかく長夜宴なぞは考えものだぞ」と一本釘を刺された。
歓迎会当日、新喜楽のおかみさんが鴨緑江節の得意な小磯参謀長のファンの老芸者連を手配してくれた。
いよいよ歓迎会になってみると、主人たる柳川次官は、相変わらず無口、盃を手にせず、山岡軍務局長もあまり話がなく、主賓の小磯参謀長もあまりはしゃがず、いわばお通夜のような気分だった。
拓務次官の河田烈氏から、二次会に小磯参謀長を近くの料亭「とんぼ」でお待ちしているとの話であったので、主人たる柳川次官は失礼して退席した。
柳川次官は料理屋の宿車には乗らず、陸軍省の自動車も断り、タクシーも嫌いで、拳(こぶし)のついた太いステッキを振り回しながら徒歩で帰邸した。有末少佐は次官官邸まで一緒にお伴をして送り届けた。
そのあと、タクシーをひろって二次会場に駆けつけた。小磯参謀長は機嫌が直って大いにメートルを挙げ、得意の唄も出た。有末少佐は一安心した。
昔から同期生でありながら、なんとなくギクシャクして所謂肌の合わない小磯、柳川両氏の間柄であったことは、この時のことからでも明白であった。