昭和十六年九月十八日、長岡中学校同窓会が東京学士会館で開かれ、山本五十六連合艦隊司令長官を囲んで話を聞く会が開かれた。
会員から山本司令長官に色々質問が出た。その一人が「米国などあんな贅沢などして文明病に取り付かれた国民など、我が大和魂に遭っては一たまりもありますまい。あまりに生意気いうたら大に打ちこらしてやる可きでありますまいか」と述べた。
すると、山本司令長官は、それに対して、容を改めて次の様に答えた。
「米国人が贅沢だとか弱いとか思うている人が、沢山日本にあるようだが、これは大間違いだ。米国人は正義感が強く偉大なる闘争心と冒険心が旺盛である。特に科学を基礎に置いて学問の上から割り出しての実行力は恐るべきものである。然も世界無比の裏付けある資源と工業力とがあるに於いてをやである」
「米国の真相をもっとよく見直さなければいけない。米国を馬鹿にして戦争をするなどというのは、大間違いの話だ。例えば有名なるリンドバーグ氏が飛行機で太平洋を横断したのは世界的大冒険でその勇敢さは実に賞賛に値するものがある。しかも我々日本人が最も留意せねばならないことは、リンドバーグ氏のこの大事業は、いわゆる暴虎愚河の勇から出たのではない。すべては学問と科学とにその基礎を置き、学理上から見て必ず成功する目途が付いて敢行した大冒険である」
「日本人はこの点を大いに学ばねばならぬ。また世界一のナイヤガラの瀑布を樽に入って下りる大冒険を米国人はやっておるが、非常に大なる勇気のいる行動である。然しこの樽に入る大冒険も精密なる論理と周到なる用意を以って実行に取り掛かれば、成功する公算が学理的に証明されているのであって、決して万一の僥倖を当てにして野猪的に突進するものではない」
「殊に米国の軍隊にはアメリカ魂が充実しておる。更にアメリカ海軍には勇敢なる将兵が多い。南北戦争にはファラガットという勇将があり、その偉功は世界を驚かせている。また米西戦争では商船でサンチャゴ港口を閉鎖したり或はアドミラル・ドュウエーが敷設水雷の敷き詰めてあるマニラ湾口を掃海もせずに乗り切り、敵艦隊に大損害を与えた有名なる史実がある。この人は我が広瀬中佐にも劣らぬ勇敢な働きをした。我々は只日本魂ありといって、無暗に米国人をあなどってはならぬ」
「現在世界を見渡して飛行機と軍艦では日米が先頭に立っていると思うが、しかし工業力の点では全く比較にならぬ。米国の科学水準と工業力を併せ考え、またかの石油のことだけを採って見ても、日本は絶対に米国と闘うべきではない。なお、一言付け加えれば、米国の光学および電波研究は驚くべき進歩を遂げていることも知らねばならぬ」
以上のように山本司令長官が話した後、最後に他の一人が「日米戦があるでしょうか」と尋ねたら、山本司令長官は「仇浪のしづまりはてゝ四方の海 のどかにならむ世をいのるかな」と明治天皇御製の歌を詠み上げた。
そして、「この明治天皇の御製の精神が実現するように、我々はあらゆる手段を尽くし、絶対に戦争の不幸を避けねばならぬ」と断言した。
昭和十六年一月、第十一航空艦隊参謀長・大西瀧次郎少将(海兵四〇)に山本五十六連合艦隊司令長官から手紙が届いた。別冊歴史読本「山本五十六と8人の幕僚」(新人物往来社)によると、その手紙の内容は、「ハワイ空襲をいかなる方法で実行すればよいか検討してほしい」というものだった。
その手紙には大西が「海軍大学校を出ていないから自由に発想できる貴官に期待する」という趣旨の一文が記されていた。山本司令長官が、大西に真珠湾攻撃の検討を依頼したのは、大西が前例にとらわれない発想の持ち主であったからであり、そしてなによりも大西に全幅の信頼を置いていたからだった。
大西は、計画の詳細を、やはり海軍航空生え抜きで、腹心的な存在である源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜)に検討させた。そして二月、源田中佐の真珠湾攻撃原案に修正を加えて山本司令長官に提出した。
だが、大西少将は後で真珠湾攻撃に反対するようになる。昭和十六年十月に、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将(海兵四一・海大二四)とともに大西少将は連合艦隊旗艦・戦艦陸奥を訪れ、山本司令長官に真珠湾攻撃を中止するように進言した。
大西少将の真珠湾攻撃反対論の趣旨は次の様なものだった。
「今度の戦争で日本は米州ハドソン川で観艦式をやることはできない。したがって、どこかで米国と和を結ばねばならない。それには米本土に等しいハワイに対し奇襲攻撃を加え、米国民を怒らせてはいけない。もしこれを敢行すれば米国民は最後まで戦う決意をするであろう」
「蛇足を加えるならば、日本は絶対に米国に勝つことはできない。米国民はこれまた絶対に戦争をやめない。だからハワイを奇襲攻撃すれば妥協の余地は全く失われる。最後のとことんまで戦争をすれば日本は無条件降伏することになる。だからハワイ奇襲は絶対にしてはいけない」
だが昭和十六年十二月八日、日本は真珠湾攻撃を行い、予想以上の戦果を収めた。しかし、大西は「真珠湾攻撃は失敗である」という自分の考えを変えることはなかったと言われている。
会員から山本司令長官に色々質問が出た。その一人が「米国などあんな贅沢などして文明病に取り付かれた国民など、我が大和魂に遭っては一たまりもありますまい。あまりに生意気いうたら大に打ちこらしてやる可きでありますまいか」と述べた。
すると、山本司令長官は、それに対して、容を改めて次の様に答えた。
「米国人が贅沢だとか弱いとか思うている人が、沢山日本にあるようだが、これは大間違いだ。米国人は正義感が強く偉大なる闘争心と冒険心が旺盛である。特に科学を基礎に置いて学問の上から割り出しての実行力は恐るべきものである。然も世界無比の裏付けある資源と工業力とがあるに於いてをやである」
「米国の真相をもっとよく見直さなければいけない。米国を馬鹿にして戦争をするなどというのは、大間違いの話だ。例えば有名なるリンドバーグ氏が飛行機で太平洋を横断したのは世界的大冒険でその勇敢さは実に賞賛に値するものがある。しかも我々日本人が最も留意せねばならないことは、リンドバーグ氏のこの大事業は、いわゆる暴虎愚河の勇から出たのではない。すべては学問と科学とにその基礎を置き、学理上から見て必ず成功する目途が付いて敢行した大冒険である」
「日本人はこの点を大いに学ばねばならぬ。また世界一のナイヤガラの瀑布を樽に入って下りる大冒険を米国人はやっておるが、非常に大なる勇気のいる行動である。然しこの樽に入る大冒険も精密なる論理と周到なる用意を以って実行に取り掛かれば、成功する公算が学理的に証明されているのであって、決して万一の僥倖を当てにして野猪的に突進するものではない」
「殊に米国の軍隊にはアメリカ魂が充実しておる。更にアメリカ海軍には勇敢なる将兵が多い。南北戦争にはファラガットという勇将があり、その偉功は世界を驚かせている。また米西戦争では商船でサンチャゴ港口を閉鎖したり或はアドミラル・ドュウエーが敷設水雷の敷き詰めてあるマニラ湾口を掃海もせずに乗り切り、敵艦隊に大損害を与えた有名なる史実がある。この人は我が広瀬中佐にも劣らぬ勇敢な働きをした。我々は只日本魂ありといって、無暗に米国人をあなどってはならぬ」
「現在世界を見渡して飛行機と軍艦では日米が先頭に立っていると思うが、しかし工業力の点では全く比較にならぬ。米国の科学水準と工業力を併せ考え、またかの石油のことだけを採って見ても、日本は絶対に米国と闘うべきではない。なお、一言付け加えれば、米国の光学および電波研究は驚くべき進歩を遂げていることも知らねばならぬ」
以上のように山本司令長官が話した後、最後に他の一人が「日米戦があるでしょうか」と尋ねたら、山本司令長官は「仇浪のしづまりはてゝ四方の海 のどかにならむ世をいのるかな」と明治天皇御製の歌を詠み上げた。
そして、「この明治天皇の御製の精神が実現するように、我々はあらゆる手段を尽くし、絶対に戦争の不幸を避けねばならぬ」と断言した。
昭和十六年一月、第十一航空艦隊参謀長・大西瀧次郎少将(海兵四〇)に山本五十六連合艦隊司令長官から手紙が届いた。別冊歴史読本「山本五十六と8人の幕僚」(新人物往来社)によると、その手紙の内容は、「ハワイ空襲をいかなる方法で実行すればよいか検討してほしい」というものだった。
その手紙には大西が「海軍大学校を出ていないから自由に発想できる貴官に期待する」という趣旨の一文が記されていた。山本司令長官が、大西に真珠湾攻撃の検討を依頼したのは、大西が前例にとらわれない発想の持ち主であったからであり、そしてなによりも大西に全幅の信頼を置いていたからだった。
大西は、計画の詳細を、やはり海軍航空生え抜きで、腹心的な存在である源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜)に検討させた。そして二月、源田中佐の真珠湾攻撃原案に修正を加えて山本司令長官に提出した。
だが、大西少将は後で真珠湾攻撃に反対するようになる。昭和十六年十月に、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将(海兵四一・海大二四)とともに大西少将は連合艦隊旗艦・戦艦陸奥を訪れ、山本司令長官に真珠湾攻撃を中止するように進言した。
大西少将の真珠湾攻撃反対論の趣旨は次の様なものだった。
「今度の戦争で日本は米州ハドソン川で観艦式をやることはできない。したがって、どこかで米国と和を結ばねばならない。それには米本土に等しいハワイに対し奇襲攻撃を加え、米国民を怒らせてはいけない。もしこれを敢行すれば米国民は最後まで戦う決意をするであろう」
「蛇足を加えるならば、日本は絶対に米国に勝つことはできない。米国民はこれまた絶対に戦争をやめない。だからハワイを奇襲攻撃すれば妥協の余地は全く失われる。最後のとことんまで戦争をすれば日本は無条件降伏することになる。だからハワイ奇襲は絶対にしてはいけない」
だが昭和十六年十二月八日、日本は真珠湾攻撃を行い、予想以上の戦果を収めた。しかし、大西は「真珠湾攻撃は失敗である」という自分の考えを変えることはなかったと言われている。
(大和とは限りませんが、たとえば、の話です)
第一次作戦終了後、東進し、ハワイとカリフォルニアを占領、その後は航空機による爆撃でアメリカの工業力を破壊、一方でインド洋方面作戦でインドを独立させ、さらには豪州を孤立させて降伏させる。
大陸方面は兵力を減らし、最低限防御できる程度に抑える。余った兵力を米国本土作戦やインド方面作戦に使う。
これを実現していれば、勝てたはずです。もちろん、電探、富岳、キ74などの新兵器の開発を進め、潜水艦は輸送ではなく通商破壊と艦隊決戦に使う、などの条件はありますが。
一点疑問に感じたのですが、大西中将が真珠湾奇襲に反対したと言う、別冊歴史読本の記述は信頼に値するものなのでしょうか?
当時の日記とか進言内容を裏付ける様な記録は残っているのでしょうか?
進言内容が何だか戦後の後知恵の様に思えてなりません。