その厳しい訓示の四日後の十二月二十八日、山本司令長官は、恋人の河合千代子宛に次の様な趣旨の手紙を送っている。
「方々から手紙などが山の如く来ますが、私はたった一人の千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待っております。写真はまだでせうか」
また、年が明けて、昭和十七年一月八日付の千代子への手紙には次の様に書いている。
「三十日と元旦の手紙ありがとうございました。三十日のは一丈あるように書いてあったから、正確に計ってみたら九尺二寸三分しかなかった。あと七寸七分だけ書き足してもるつもりで居ったところ、元旦のが来て、とても嬉しかった。クウクウだよ」
「クウクウ」とは、開戦直前の十一月末に、千代子と二人で広島県の宮島に遊んだ時、頭をなでられた小鹿が鳴いた声だという。
「凡将・山本五十六」の著者、生出寿氏(海兵七四・東大文学部卒)は、「『勝って兜の緒を締めよ。次の戦いに備え、いっそうの戒心を望む』という訓示と、その直後のこの手紙は、いったいどうなっているのだろうか」と、批判的に述べている。
昭和十七年二月十二日に連合艦隊司令部は、戦艦長門から、新造の戦艦大和に移った。艦歴二十三年の長門に比べて、新造の大和は居住区も改善され、幕僚達は新しい旗艦の暮らしを喜んだ。
四月四日には、山本五十六は五十九歳の誕生日だった。瀬戸内海、岩国沖の柱島の戦艦大和に海軍省人事局員が、山本五十六司令長官への勲一等加綬の旭日大綬章と功二級の金鵄勲章を持って訪れた。
そのとき、山本司令長官は「こんなもの、貰っていいのかなあ」と言い、金色に輝く金鵄勲章を眺めて、「恥ずかしくて、こんなもの、つれやせん」と言った。
昭和十七年四月二十八日から三十日まで、柱島在泊中の戦艦大和で、第一段作戦の研究会が行われた。ハワイからインド洋までの五ヶ月にわたる諸作戦の反省会である。
次に、五月一日から四日まで、これから行われる第二段作戦の図上演習および研究会が行われた。ミッドウェー・アリューシャン作戦、FS作戦(フィジー、サモア攻略作戦)、ジョンストン、パルミア作戦、ハワイ攻略作戦など、六月から五ヶ月間にわたる諸作戦の研究であった。
このときの、ミッドウェー作戦の図上演習について、当時の航空部隊総指揮官の淵田美津雄中佐(海兵五二・海大三六)と当時の統監部員・奥宮正武少佐(海兵五八)は、戦後出版された「ミッドウェー」(淵田美津雄・奥宮正武・日本出版協同)で次の様に述べている。
図演の統監兼審判長は宇垣参謀長であった。青軍(日本)機動部隊がミッドウェーを空襲中、赤軍(米国)航空部隊が青軍を爆撃し、赤城、加賀が沈没という判定となった。
すると宇垣がそれを制して、独断で赤城小破、加賀沈没と修正させた。ところが、次のフィジー、サモア作戦になると、沈没した加賀がいつの間にか浮き上がって、活動を再開していた。
このような統裁ぶりには、さすが心臓の強い飛行将校連もあっけにとられるばかりだった。だが、実際には、ミッドウェー海戦で、米軍は赤城、加賀など、日本の空母を四隻とも沈めてしまった。
「人間提督・山本五十六」(戸川幸夫・光人社)によると、この図上演習のことを、著者の戸川幸夫が当時の戦務参謀・渡辺安次中佐(海兵五一・海大三三)から直接聞いた話が次の様に載っている。
「宇垣参謀長が、『ミッドウェー基地に空襲をかけているとき、敵機動部隊が襲ってくるかもしれない。そのときの対策は?』と言われたら、南雲忠一機動部隊司令長官は言下に『わが戦闘機をもってすれば鎧袖一触である』と言い切られたのです」
「その言葉を聞いて山本五十六長官は『鎧袖一触なんて言葉は不用心だ。実際にこちらが基地を叩いているとき、不意に横っ腹へ槍を突っ込まれないように研究しとくことだ。この作戦はミッドウェーを叩くのが主目的ではなく、そこを衝かれて顔を出した敵艦隊を潰すのが主目的だ。そのあとでミッドウェーを取ればいい。本末を誤らないように。だから攻撃機の半分には魚雷をつけて待機さすように』と、くどいくらいに南雲長官に言われたのですが、南雲長官にはピンとこないようでした」
「あのとき、山本長官の注意を守っていたら少なくとも敵機動部隊と刺し違えることはできたでしょうが」
このように、連合艦隊司令部と機動部隊とはしっくりいっていなかった。むしろ互いに「なにするものぞ」と反感を抱いていた。
五月のある日、空母飛龍艦長・加来止男大佐(海兵四二・海大二五)が、兵学校同期の軍務局第二課長・石川信吾大佐(海兵四二・海大二五)の娘の結婚式に出席するため、上京してきた。
石川大佐が「おい、ミッドウェーとは何だい? 勝って新聞賑わすだけで、負けたら大変なことになるぞ。東京じゃあ、みんな反対なんだ。貴様、なんと思って出て行く?」と加来大佐に不平を言った。
加来大佐は「うん。今度はもう、貴様とも会えないかも知らんな。後事を頼むよ」と、あまり気勢の上がらぬ様子で「俺も、この作戦は無理だし、無意味だと思っている。しかし、山本さんが頑張るから、やむを得ないんだ」と言った。
石川大佐が「どうしてそれを、長官に言わない? それ位はっきり言って、航空母艦の艦長ともなったら、山本さんを諌めたらどうだ」と続けた。
「方々から手紙などが山の如く来ますが、私はたった一人の千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待っております。写真はまだでせうか」
また、年が明けて、昭和十七年一月八日付の千代子への手紙には次の様に書いている。
「三十日と元旦の手紙ありがとうございました。三十日のは一丈あるように書いてあったから、正確に計ってみたら九尺二寸三分しかなかった。あと七寸七分だけ書き足してもるつもりで居ったところ、元旦のが来て、とても嬉しかった。クウクウだよ」
「クウクウ」とは、開戦直前の十一月末に、千代子と二人で広島県の宮島に遊んだ時、頭をなでられた小鹿が鳴いた声だという。
「凡将・山本五十六」の著者、生出寿氏(海兵七四・東大文学部卒)は、「『勝って兜の緒を締めよ。次の戦いに備え、いっそうの戒心を望む』という訓示と、その直後のこの手紙は、いったいどうなっているのだろうか」と、批判的に述べている。
昭和十七年二月十二日に連合艦隊司令部は、戦艦長門から、新造の戦艦大和に移った。艦歴二十三年の長門に比べて、新造の大和は居住区も改善され、幕僚達は新しい旗艦の暮らしを喜んだ。
四月四日には、山本五十六は五十九歳の誕生日だった。瀬戸内海、岩国沖の柱島の戦艦大和に海軍省人事局員が、山本五十六司令長官への勲一等加綬の旭日大綬章と功二級の金鵄勲章を持って訪れた。
そのとき、山本司令長官は「こんなもの、貰っていいのかなあ」と言い、金色に輝く金鵄勲章を眺めて、「恥ずかしくて、こんなもの、つれやせん」と言った。
昭和十七年四月二十八日から三十日まで、柱島在泊中の戦艦大和で、第一段作戦の研究会が行われた。ハワイからインド洋までの五ヶ月にわたる諸作戦の反省会である。
次に、五月一日から四日まで、これから行われる第二段作戦の図上演習および研究会が行われた。ミッドウェー・アリューシャン作戦、FS作戦(フィジー、サモア攻略作戦)、ジョンストン、パルミア作戦、ハワイ攻略作戦など、六月から五ヶ月間にわたる諸作戦の研究であった。
このときの、ミッドウェー作戦の図上演習について、当時の航空部隊総指揮官の淵田美津雄中佐(海兵五二・海大三六)と当時の統監部員・奥宮正武少佐(海兵五八)は、戦後出版された「ミッドウェー」(淵田美津雄・奥宮正武・日本出版協同)で次の様に述べている。
図演の統監兼審判長は宇垣参謀長であった。青軍(日本)機動部隊がミッドウェーを空襲中、赤軍(米国)航空部隊が青軍を爆撃し、赤城、加賀が沈没という判定となった。
すると宇垣がそれを制して、独断で赤城小破、加賀沈没と修正させた。ところが、次のフィジー、サモア作戦になると、沈没した加賀がいつの間にか浮き上がって、活動を再開していた。
このような統裁ぶりには、さすが心臓の強い飛行将校連もあっけにとられるばかりだった。だが、実際には、ミッドウェー海戦で、米軍は赤城、加賀など、日本の空母を四隻とも沈めてしまった。
「人間提督・山本五十六」(戸川幸夫・光人社)によると、この図上演習のことを、著者の戸川幸夫が当時の戦務参謀・渡辺安次中佐(海兵五一・海大三三)から直接聞いた話が次の様に載っている。
「宇垣参謀長が、『ミッドウェー基地に空襲をかけているとき、敵機動部隊が襲ってくるかもしれない。そのときの対策は?』と言われたら、南雲忠一機動部隊司令長官は言下に『わが戦闘機をもってすれば鎧袖一触である』と言い切られたのです」
「その言葉を聞いて山本五十六長官は『鎧袖一触なんて言葉は不用心だ。実際にこちらが基地を叩いているとき、不意に横っ腹へ槍を突っ込まれないように研究しとくことだ。この作戦はミッドウェーを叩くのが主目的ではなく、そこを衝かれて顔を出した敵艦隊を潰すのが主目的だ。そのあとでミッドウェーを取ればいい。本末を誤らないように。だから攻撃機の半分には魚雷をつけて待機さすように』と、くどいくらいに南雲長官に言われたのですが、南雲長官にはピンとこないようでした」
「あのとき、山本長官の注意を守っていたら少なくとも敵機動部隊と刺し違えることはできたでしょうが」
このように、連合艦隊司令部と機動部隊とはしっくりいっていなかった。むしろ互いに「なにするものぞ」と反感を抱いていた。
五月のある日、空母飛龍艦長・加来止男大佐(海兵四二・海大二五)が、兵学校同期の軍務局第二課長・石川信吾大佐(海兵四二・海大二五)の娘の結婚式に出席するため、上京してきた。
石川大佐が「おい、ミッドウェーとは何だい? 勝って新聞賑わすだけで、負けたら大変なことになるぞ。東京じゃあ、みんな反対なんだ。貴様、なんと思って出て行く?」と加来大佐に不平を言った。
加来大佐は「うん。今度はもう、貴様とも会えないかも知らんな。後事を頼むよ」と、あまり気勢の上がらぬ様子で「俺も、この作戦は無理だし、無意味だと思っている。しかし、山本さんが頑張るから、やむを得ないんだ」と言った。
石川大佐が「どうしてそれを、長官に言わない? それ位はっきり言って、航空母艦の艦長ともなったら、山本さんを諌めたらどうだ」と続けた。
源田実氏の言葉では?