陸軍省の局長会報で兵務局長の田中少将は「この内閣には癌がある。それは星野、鈴木、岸の三人だ」と一矢を放ったが、東條首相は歯牙にかけない風を示した。
それで、田中少将はさらに「一国の総理たる者がゴミ箱の中を覗いたり魚屋の兄貴の肩をたたくのは見っとも無いからよしたほうが良い」と言った。
すると東條首相は大喝一番「やめない」と怒鳴った。
それで田中少将は「ボヤボヤすると殺されますぞ」と言った。すると東條首相は「それは良く注意している」と穏やかに答えた。
昭和19年、木戸内大臣と会談した田中少将は「何が故に重臣は東條を推薦せりや?」と問うた。
木戸氏は「それは東條が陸軍大臣になってから、珍しく統制がとれたので、東條ならば陸軍部内の主戦論を抑えて、戦争の勃発を回避し得ると思ったからだ」と答えた。
田中少将は重臣の軍の統制に対する無知に驚いた。
昭和16年10月中旬、田中少将は下志津飛行学校幹事の中西大佐を訪れ、「米国の航空機に対して、日本の航空機の現状を持って果たして勝算があるか」と聴いた。
中西大佐は「質、量、共に勝算なし」と極めて明白に断言した。
また、その翌日、たまたま上京中であった石原莞爾中将から木村代議士を通して田中少将に会いたいとの伝言があった。
会ってみると石原中将は開口一番「石油が欲しいからといって戦争をする馬鹿があるか」と言った。
また「南方を占領したって、日本の現在の船舶量では、石油は愚かな事。ゴムも米も絶対に内地にもって帰ることは出来ぬ」と一流の口調で言った。
さらに石原中将は「ドイツはロシアに勝てぬ」とも言った。
「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、昭和16年12月8日午前6時、田中少将は陸軍省から電話を受けて真珠湾攻撃が成功した事を知った。
8日の正午宣戦の大詔が発せられた。午後1時陸軍省の大講堂で、東條首相の訓示があった。
田中少将は武藤軍務局長と隣り合って聞いた。訓示の直前、武藤軍務局長は田中少将に「これで東條は英雄になった」と言った。
田中少将は「国賊にならなければよいが」と言った。
すると武藤軍務局長は「そうだ、しくじったら国体破壊まで行くから正に国賊だ。然し緒戦が巧く行ったからそんなことにはならぬ」と答えた。
9日午後に至って、真珠湾及びマレー沖海戦の戦果が明らかになった。
田中少将は部下に「この戦争を甘く見てはならぬ。この戦争は独ソ戦争の帰趨が決するまでは始めてはならない戦争であった。もし万一ドイツが負けたら日本は亡ぶ」と言った。
田中少将の言葉は忽ち部内に伝わり局長として許すべからず悲観論として喧々ごうごうたる非難を受けた。
昭和17年4月18日最初の東京空襲があった。田中少将は兵務局において作成した防空施設計画を東條陸軍大臣に提出した。だがこの案に反対した。
田中少将は武藤軍務局長の後を継いだ佐藤賢了少将に予算の捻出を要求したが、頑として応じなかったという。
それで、田中少将はさらに「一国の総理たる者がゴミ箱の中を覗いたり魚屋の兄貴の肩をたたくのは見っとも無いからよしたほうが良い」と言った。
すると東條首相は大喝一番「やめない」と怒鳴った。
それで田中少将は「ボヤボヤすると殺されますぞ」と言った。すると東條首相は「それは良く注意している」と穏やかに答えた。
昭和19年、木戸内大臣と会談した田中少将は「何が故に重臣は東條を推薦せりや?」と問うた。
木戸氏は「それは東條が陸軍大臣になってから、珍しく統制がとれたので、東條ならば陸軍部内の主戦論を抑えて、戦争の勃発を回避し得ると思ったからだ」と答えた。
田中少将は重臣の軍の統制に対する無知に驚いた。
昭和16年10月中旬、田中少将は下志津飛行学校幹事の中西大佐を訪れ、「米国の航空機に対して、日本の航空機の現状を持って果たして勝算があるか」と聴いた。
中西大佐は「質、量、共に勝算なし」と極めて明白に断言した。
また、その翌日、たまたま上京中であった石原莞爾中将から木村代議士を通して田中少将に会いたいとの伝言があった。
会ってみると石原中将は開口一番「石油が欲しいからといって戦争をする馬鹿があるか」と言った。
また「南方を占領したって、日本の現在の船舶量では、石油は愚かな事。ゴムも米も絶対に内地にもって帰ることは出来ぬ」と一流の口調で言った。
さらに石原中将は「ドイツはロシアに勝てぬ」とも言った。
「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、昭和16年12月8日午前6時、田中少将は陸軍省から電話を受けて真珠湾攻撃が成功した事を知った。
8日の正午宣戦の大詔が発せられた。午後1時陸軍省の大講堂で、東條首相の訓示があった。
田中少将は武藤軍務局長と隣り合って聞いた。訓示の直前、武藤軍務局長は田中少将に「これで東條は英雄になった」と言った。
田中少将は「国賊にならなければよいが」と言った。
すると武藤軍務局長は「そうだ、しくじったら国体破壊まで行くから正に国賊だ。然し緒戦が巧く行ったからそんなことにはならぬ」と答えた。
9日午後に至って、真珠湾及びマレー沖海戦の戦果が明らかになった。
田中少将は部下に「この戦争を甘く見てはならぬ。この戦争は独ソ戦争の帰趨が決するまでは始めてはならない戦争であった。もし万一ドイツが負けたら日本は亡ぶ」と言った。
田中少将の言葉は忽ち部内に伝わり局長として許すべからず悲観論として喧々ごうごうたる非難を受けた。
昭和17年4月18日最初の東京空襲があった。田中少将は兵務局において作成した防空施設計画を東條陸軍大臣に提出した。だがこの案に反対した。
田中少将は武藤軍務局長の後を継いだ佐藤賢了少将に予算の捻出を要求したが、頑として応じなかったという。