訓練は日一日と猛烈さを加えて続けられた。ある晴れた日、空母赤城のはるか上空で二機の戦闘機が追いつ追われつの空中戦訓練を行っていた。
その時、議員の見学団が赤城の飛行甲板に並んで大空を見上げていた。「実にうまいもんじゃ」「まるでサーカスのようだ」
面白そうに語るのを耳にした山本司令官は、つかつかと近寄って厳粛に次のように言い渡した。
「皆さん、あれを遊びごとのように見てもらっては困ります。ああやって上空から真っ逆さまに急降下しますと、肺の中に出血するのです。あのたびに搭乗者は生命を縮めているのです。ああいった訓練は三十を越えるともうできません」
「あれが皆さんの子息だったらと考えてみてください。人の子を預かっている私としては、あんなことをやらせるに忍びないのだが、国のためには替えられぬからむりにやらせているのです」
議員団は一瞬、しゅんとなった。
昭和九年九月七日、山本五十六少将はロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側主席代表に任命された。十月からロンドンで会議が始まり、山本少将は英米を相手に奔走の日々を過ごしていた。
十二月に入って、ある朝のこと、同行していた榎本重次が「ゆうべ堀さんの夢を見たよ」と何気なく言うと、山本中将(十一月十五日中将に昇進)は急に目を見据え、「なに? 本当か。堀がやられたな」と言って顔色を変え、凄まじい形相になった。
堀悌吉中将(海兵三二首席・海大一六首席)は、山本中将と海軍兵学校同期で、三十二期のクラスヘッドだった。山本中将が最も信頼し、敬愛していた親友だった。
堀中将は山本中将より一年早く中将に進級したが、山本中将と同じ条約派で、強硬派の艦隊派から山本中将以上ににらまれていた。
当時、艦隊派の筆頭、加藤寛治大将(海兵一八首席)をはじめ、末次信正大将(海兵二七・海大七恩賜)、高橋三吉大将(海兵二九・海大一〇)などが条約派のグループを片っ端からやっつけることを策していた。
当時海軍大臣の大角岑生大将(海兵二四恩賜・海大五)は八方美人で、強硬派の艦隊派に迎合して、山梨勝之進大将(海兵二五次席・海大五次席)、谷口尚真大将(海兵一九・海大三)、左近司政三中将(海兵二八・海大一〇)、寺島健中将(海兵三一・海大一二)ら条約派の将官たちが次々に失脚して予備役に編入された。
そのあと、堀悌吉中将(海兵三二首席・海大一六首席)が、昭和九年十二月十日、突然待命を仰せ付けられ、十五日付で予備役に編入された。
山本五十六少将はロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側主席代表として東京を出発する時、堀中将のことを大角海軍大臣に頼み、兵学校同期の嶋田繁太郎中将(海兵三二・海大一三)を介して軍令部総長・伏見宮にも頼んでいた。
伏見宮は「自分は人事には関与しない」との返事だったが、軍令部内の強硬派に焚き付けられ、堀中将に関する中傷を真に受け、結局、人事に口を入れて、堀中将を首にしてしまった。
堀中将に対する中傷とは、上海事変の際、第三戦隊司令官として卑怯の振舞があったということだった。上陸部隊援護のため、中支沿岸の敵砲台に艦砲射撃を加える時、堀司令官は砲台の付近に住民がまだ少しいるのを認めて、砲撃開始を猶予させた。このことを指していた。
だが、これは堀を辞めさせるための理屈だった。山本五十六は堀に手紙を書いて「君の運命を承知した。このような事態となり本当に心外だ。山梨勝之進が言ったように、海軍は慢心のためいったん斃れる悲境に陥ってから、後に立て直す他に道はないないのだと思う」などと述べている。
山本中将は「海軍の大馬鹿人事だ。巡洋艦戦隊の一隊と一人の堀悌吉と、海軍にとってどっちが大切なんだ」と憤慨し、「仕事をする気力もなくなった」とそばで見ていられないほどの落胆ぶりだった。
山本中将は粘り強く交渉をつづけたが、結局ロンドン軍縮予備交渉は決裂した。形式的な本会議が昭和十年に入ってから行われたが、結論派同じだった。
帰国命令がでて、山本中将は昭和十年一月二十八日、ロンドンを出発し、シベリア経由で二月十二日、東京に帰国した。山本五十六はロンドン予備交渉では敗れたのだった。
昭和十年二月に帰国した山本五十六は、その年の十二月に航空本部長に就任するまで、仕事らしい仕事を与えられなかった。この時期、山本五十六は海軍を辞めようと思ったこともあった。
その時、議員の見学団が赤城の飛行甲板に並んで大空を見上げていた。「実にうまいもんじゃ」「まるでサーカスのようだ」
面白そうに語るのを耳にした山本司令官は、つかつかと近寄って厳粛に次のように言い渡した。
「皆さん、あれを遊びごとのように見てもらっては困ります。ああやって上空から真っ逆さまに急降下しますと、肺の中に出血するのです。あのたびに搭乗者は生命を縮めているのです。ああいった訓練は三十を越えるともうできません」
「あれが皆さんの子息だったらと考えてみてください。人の子を預かっている私としては、あんなことをやらせるに忍びないのだが、国のためには替えられぬからむりにやらせているのです」
議員団は一瞬、しゅんとなった。
昭和九年九月七日、山本五十六少将はロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側主席代表に任命された。十月からロンドンで会議が始まり、山本少将は英米を相手に奔走の日々を過ごしていた。
十二月に入って、ある朝のこと、同行していた榎本重次が「ゆうべ堀さんの夢を見たよ」と何気なく言うと、山本中将(十一月十五日中将に昇進)は急に目を見据え、「なに? 本当か。堀がやられたな」と言って顔色を変え、凄まじい形相になった。
堀悌吉中将(海兵三二首席・海大一六首席)は、山本中将と海軍兵学校同期で、三十二期のクラスヘッドだった。山本中将が最も信頼し、敬愛していた親友だった。
堀中将は山本中将より一年早く中将に進級したが、山本中将と同じ条約派で、強硬派の艦隊派から山本中将以上ににらまれていた。
当時、艦隊派の筆頭、加藤寛治大将(海兵一八首席)をはじめ、末次信正大将(海兵二七・海大七恩賜)、高橋三吉大将(海兵二九・海大一〇)などが条約派のグループを片っ端からやっつけることを策していた。
当時海軍大臣の大角岑生大将(海兵二四恩賜・海大五)は八方美人で、強硬派の艦隊派に迎合して、山梨勝之進大将(海兵二五次席・海大五次席)、谷口尚真大将(海兵一九・海大三)、左近司政三中将(海兵二八・海大一〇)、寺島健中将(海兵三一・海大一二)ら条約派の将官たちが次々に失脚して予備役に編入された。
そのあと、堀悌吉中将(海兵三二首席・海大一六首席)が、昭和九年十二月十日、突然待命を仰せ付けられ、十五日付で予備役に編入された。
山本五十六少将はロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側主席代表として東京を出発する時、堀中将のことを大角海軍大臣に頼み、兵学校同期の嶋田繁太郎中将(海兵三二・海大一三)を介して軍令部総長・伏見宮にも頼んでいた。
伏見宮は「自分は人事には関与しない」との返事だったが、軍令部内の強硬派に焚き付けられ、堀中将に関する中傷を真に受け、結局、人事に口を入れて、堀中将を首にしてしまった。
堀中将に対する中傷とは、上海事変の際、第三戦隊司令官として卑怯の振舞があったということだった。上陸部隊援護のため、中支沿岸の敵砲台に艦砲射撃を加える時、堀司令官は砲台の付近に住民がまだ少しいるのを認めて、砲撃開始を猶予させた。このことを指していた。
だが、これは堀を辞めさせるための理屈だった。山本五十六は堀に手紙を書いて「君の運命を承知した。このような事態となり本当に心外だ。山梨勝之進が言ったように、海軍は慢心のためいったん斃れる悲境に陥ってから、後に立て直す他に道はないないのだと思う」などと述べている。
山本中将は「海軍の大馬鹿人事だ。巡洋艦戦隊の一隊と一人の堀悌吉と、海軍にとってどっちが大切なんだ」と憤慨し、「仕事をする気力もなくなった」とそばで見ていられないほどの落胆ぶりだった。
山本中将は粘り強く交渉をつづけたが、結局ロンドン軍縮予備交渉は決裂した。形式的な本会議が昭和十年に入ってから行われたが、結論派同じだった。
帰国命令がでて、山本中将は昭和十年一月二十八日、ロンドンを出発し、シベリア経由で二月十二日、東京に帰国した。山本五十六はロンドン予備交渉では敗れたのだった。
昭和十年二月に帰国した山本五十六は、その年の十二月に航空本部長に就任するまで、仕事らしい仕事を与えられなかった。この時期、山本五十六は海軍を辞めようと思ったこともあった。
山本元帥は、必死に対米戦に反対しましたが悲しくもその職責から開戦をやむを得なかった…
山本長官が戦死しないで生きていたら早く講和にもっていけたのにな…
長官にはもっと生きてて欲しかった