梅津大将を智将というなら、山下中将は勇将または政将、阿南中将は徳将の名がふさわしかった。さらに軍閥的区分は、梅津大将は新統制派、山下中将は皇道派、阿南中将は無色中立だった。
また、山下中将と阿南中将は陸軍士官学校十八期の同期生である。山下中将がかつて陸軍の主流街道を突っ走ったのに対し、阿南中将は陸大入試を三回も失敗し、昇進はもたついた。
だが、山下中将は、阿南中将とは不思議にウマがあい、阿南中将も山下中将に兄事する風情があった。第一方面軍司令官に山下中将が赴任途中、青島に到着すると、やはり第二方面軍編成に待機していた阿南中将が飛行場に出迎え、新京でもチチハルに向う阿南中将は出発を遅らせて、山下中将の牡丹江行きを見送った。
この友誼に、山下中将の胸中のつかえは溶解した。満州協和会幹部の一人が、山下中将を訪ねて、三将軍の存在に触れ「陸軍の粋が集まりましたな。少し、もったいないみたいですな」と喚声を献呈した。
すると山下中将は「南に阿南あり、新京に梅津閣下、東に山下がおる。満州はご安心ください」と答えたといわれている。
昭和十八年二月六日、山下中将はハルピンに向かい、軍人会館で各師団長から初年兵教育に関する報告を受けた。
その後、師団長達と会食をしようとするとき、山下中将に陸軍大将進級の内命電を受け取った。山下中将は、電報を開くと、失礼、と師団長一同に断って一室に入り、しばらく出てこなかった。
なにごとか、と師団長達は私語をしていたが、現れた山下中将の「うれしい便りでした」の一言に、それとうなずきあった。
山下中将の大将進級は当然に期待されていた。中将から大将になるには、中将を四年つとめねばならない。むろん中将を四年間過ごしたからといって、誰でもが大将になれるわけではない。
だが、山下中将は過去の経歴、とくにシンガポール攻略の偉功を考慮すれば、大将有資格者の筆頭に数えられた。
山下中将が、中将に進級したのは昭和十二年十一月。本来ならば、昭和十六年十一月にも大将になってもよく、少なくともシンガポール攻略直後に昇進するのは、自然だとみなされていた。
昭和十七年中には必ずと誰しもが思っていただけに、その昭和十七年が暮れると、何とはなしに、山下中将の前途にたいする不吉な風聞がささやかれはじめた。
いわく、山下中将はニ・二六事件の際に、反乱青年将校に味方したので、天皇の不興を買った。そのため、大将進級予定者の上奏名簿がお手許に届き、山下中将の名前があると、陛下は無言で名簿を伏せて御璽(ぎょじ)を捺印されないそうだ・・・・・・。
それだけに、山下中将の感銘はひとしおだった。昭和十八年二月十日、正式発表とともに梅津関東軍司令官から大将の階級襟章一組、鯛一尾、酒一樽が届けられた。
山下大将は親友、阿南中将の身上に想いをはせた。「今度は阿南の番だよ」。
山下大将の言葉どおり山下大将の進級三ヵ月後の五月一日、阿南中将も大将に進んだ。山下大将は祝電を打ち、その四日後、関東軍総合演習視察のために遼陽に到着すると、真っ先に阿南大将を訪ねた。
「やあ」「おう」。お互いに真新しい大将の襟章を眺めあいながら、二人の大将はニコリとうなずきあった。梅津大将もその側で微笑した。
東條内閣が倒れたのは昭和十九年七月十八日だが、山下大将はその少し前、満州中央銀行の西山勉総裁の来訪を受けた。
西山総裁はもっぱら東京の政情を詳しく語り続けた。西山総裁は別れ際に「山下、いずれ君も東京に出て大いに働いてもらわねばならんときが来るだろうよ」と言った。
「・・・・・?」。山下大将が質問しようとすると、西山総裁はそのまま手を振って自動車に乗り込んだ。山下大将の胸中を東京から伝わってきていた「陸相候補説」がよぎった。
だが数日後、意外にも西山総裁は再び牡丹江にやってきた。そして、言った。「山下、もし君に大命が降下したら、やる気があるか」。
「大命・・・・・・」。さすがに驚く山下大将に、西山総裁は、おそらく十分な確信を持っているらしく、「近く東條内閣が瓦解する」と言った。そして付け加えた。「今度は皇道派の出番だろう」。
「いや、いまさら統制派、皇道派、はありますまい」と山下大将は即答した。山下大将は、もし西山総裁の話がほかの根拠に基づいていたなら、あるいは胸奥は大きく波立ったかもしれない。
また、山下中将と阿南中将は陸軍士官学校十八期の同期生である。山下中将がかつて陸軍の主流街道を突っ走ったのに対し、阿南中将は陸大入試を三回も失敗し、昇進はもたついた。
だが、山下中将は、阿南中将とは不思議にウマがあい、阿南中将も山下中将に兄事する風情があった。第一方面軍司令官に山下中将が赴任途中、青島に到着すると、やはり第二方面軍編成に待機していた阿南中将が飛行場に出迎え、新京でもチチハルに向う阿南中将は出発を遅らせて、山下中将の牡丹江行きを見送った。
この友誼に、山下中将の胸中のつかえは溶解した。満州協和会幹部の一人が、山下中将を訪ねて、三将軍の存在に触れ「陸軍の粋が集まりましたな。少し、もったいないみたいですな」と喚声を献呈した。
すると山下中将は「南に阿南あり、新京に梅津閣下、東に山下がおる。満州はご安心ください」と答えたといわれている。
昭和十八年二月六日、山下中将はハルピンに向かい、軍人会館で各師団長から初年兵教育に関する報告を受けた。
その後、師団長達と会食をしようとするとき、山下中将に陸軍大将進級の内命電を受け取った。山下中将は、電報を開くと、失礼、と師団長一同に断って一室に入り、しばらく出てこなかった。
なにごとか、と師団長達は私語をしていたが、現れた山下中将の「うれしい便りでした」の一言に、それとうなずきあった。
山下中将の大将進級は当然に期待されていた。中将から大将になるには、中将を四年つとめねばならない。むろん中将を四年間過ごしたからといって、誰でもが大将になれるわけではない。
だが、山下中将は過去の経歴、とくにシンガポール攻略の偉功を考慮すれば、大将有資格者の筆頭に数えられた。
山下中将が、中将に進級したのは昭和十二年十一月。本来ならば、昭和十六年十一月にも大将になってもよく、少なくともシンガポール攻略直後に昇進するのは、自然だとみなされていた。
昭和十七年中には必ずと誰しもが思っていただけに、その昭和十七年が暮れると、何とはなしに、山下中将の前途にたいする不吉な風聞がささやかれはじめた。
いわく、山下中将はニ・二六事件の際に、反乱青年将校に味方したので、天皇の不興を買った。そのため、大将進級予定者の上奏名簿がお手許に届き、山下中将の名前があると、陛下は無言で名簿を伏せて御璽(ぎょじ)を捺印されないそうだ・・・・・・。
それだけに、山下中将の感銘はひとしおだった。昭和十八年二月十日、正式発表とともに梅津関東軍司令官から大将の階級襟章一組、鯛一尾、酒一樽が届けられた。
山下大将は親友、阿南中将の身上に想いをはせた。「今度は阿南の番だよ」。
山下大将の言葉どおり山下大将の進級三ヵ月後の五月一日、阿南中将も大将に進んだ。山下大将は祝電を打ち、その四日後、関東軍総合演習視察のために遼陽に到着すると、真っ先に阿南大将を訪ねた。
「やあ」「おう」。お互いに真新しい大将の襟章を眺めあいながら、二人の大将はニコリとうなずきあった。梅津大将もその側で微笑した。
東條内閣が倒れたのは昭和十九年七月十八日だが、山下大将はその少し前、満州中央銀行の西山勉総裁の来訪を受けた。
西山総裁はもっぱら東京の政情を詳しく語り続けた。西山総裁は別れ際に「山下、いずれ君も東京に出て大いに働いてもらわねばならんときが来るだろうよ」と言った。
「・・・・・?」。山下大将が質問しようとすると、西山総裁はそのまま手を振って自動車に乗り込んだ。山下大将の胸中を東京から伝わってきていた「陸相候補説」がよぎった。
だが数日後、意外にも西山総裁は再び牡丹江にやってきた。そして、言った。「山下、もし君に大命が降下したら、やる気があるか」。
「大命・・・・・・」。さすがに驚く山下大将に、西山総裁は、おそらく十分な確信を持っているらしく、「近く東條内閣が瓦解する」と言った。そして付け加えた。「今度は皇道派の出番だろう」。
「いや、いまさら統制派、皇道派、はありますまい」と山下大将は即答した。山下大将は、もし西山総裁の話がほかの根拠に基づいていたなら、あるいは胸奥は大きく波立ったかもしれない。