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穏やかな日々を

学校カウンセラー大幅増へ 被災地小中高に千数百人 

2011年04月14日 01時01分30秒 | 地域
学校カウンセラー大幅増へ 被災地小中高に千数百人 児童生徒の心をケア
2011年4月13日 提供:共同通信社

 文部科学省は13日、東日本大震災で被災した児童生徒の心をケアするため、被災地の小中高校などに千数百人規模で、臨床心理の専門的知識を持つスクールカウンセラーを新たに配置する方針を決めた。2011年度第1次補正予算案に関連予算として約30億円を盛り込む。

 新学期を迎えた教育現場からは、震災で家族が亡くなって落胆したり、長期の避難所暮らしで心身に影響が出たりする児童生徒の続出を懸念する声が強い。集団避難で転校した子どもが新たな環境に適応できるようにケアする必要性も指摘されている。

 岩手、宮城、福島3県の調査によると、今月1日現在、震災で両親が死亡・行方不明になった孤児は少なくとも73人で、家族の中で誰かを失った児童生徒は相当数に上るとみられる。

 今回、配置対象となるのは、災害救助法が適用された青森、岩手、宮城、福島、茨城など各県の市町村にある国公私立の小中高校など。現在配置されているカウンセラーの就業時間を延長するためなどに補正予算を使うことも可能という。

 スクールカウンセラーは、児童生徒だけでなく保護者の相談相手にもなり、学校再開で負担が強まる教員にも助言する。文科省は、被災した教員をサポートする役割も期待している。

 文科省によると、09年度の公立小中学校のスクールカウンセラーは約6100人。

※スクールカウンセラー

 小中高校などに配置され、いじめや不登校といった悩みのほか、災害や事件が起きた際に子どもの相談を受ける専門家。教職員や保護者にもアドバイスする。精神科医や臨床心理士が担当することが多いが、児童生徒の相談業務に一定の経験を持つ人もなれる。文部科学省によると、2011年度は小学校約1万2千校、中学校約9900校に配置できるよう当初予算が計上されている。



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太ると脳もビッグサイズに

2011年04月14日 00時40分01秒 | 仕事
太ると脳もビッグサイズに ナメクジで、徳島文理大
2011年4月13日 提供:共同通信社

 肥満で体が大きくなると、脳と脳内の神経細胞のサイズも大きくなることを徳島文理大香川薬学部の松尾亮太(まつお・りょうた)講師らのチームがナメクジで明らかにし、13日付の米科学誌ジャーナル・オブ・ニューロサイエンス(電子版)に発表した。

 神経細胞にあるDNAの量が増えており、松尾講師は「大きくなった体をうまく動かすのに必要なタンパク質などをより多く作り出せるよう、神経細胞のDNAを増やしたと考えられる」と話している。

 松尾講師によると、アルツハイマー病では脳内のDNA量が増えて異常を来し細胞が死滅しており、DNAの量が増える仕組みが解明できれば病因の解明につながる可能性がある。

 チームは、太らせたナメクジと絶食状態を続けたナメクジを比較。体重が10倍になると、神経細胞の総数は変わらなかったが、細胞や脳の体積が3~4倍に増えた。

 また、太ったナメクジの脳では、絶食のナメクジに比べて、体を動かすのに必要なタンパク質などの神経伝達物質の放出量も4~5倍に増えていた。

 松尾講師は「ナメクジはDNA増幅をうまく利用している。そのメカニズムはヒトと共通しているかもしれず、明らかにしていきたい」とした。

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郷土のため、ここに残る 仮設診療所で復興を支援

2011年04月14日 00時34分08秒 | 地域

郷土のため、ここに残る 仮設診療所で復興を支援
2011年4月13日 提供:共同通信社

 病院や診療所がほとんど被災した岩手県陸前高田市で、内科医鵜浦章(うのうら・あきら)さん(60)が友人の歯科医に呼び掛け内科と歯科の仮設診療所を開設する。震災後、一度は故郷を離れることも考えたが、多くの患者から要望され、郷土の復興のためにとどまる決意をした。

 市役所仮庁舎近くの高台にある鵜浦さんの所有地に、プレハブで約100平方メートルを確保。鵜浦さんが受け持つ内科のほか、友人の吉田正紀(よしだ・まさのり)さん(61)が歯科を担当。薬局も入る。今月中に診療を始める。

 鵜浦さんによると、市内に合わせて21あった病院、診療所、歯科医院のうち、使用可能な状態で建物が残ったのは3カ所だけで、薬局は7店舗すべてが被災した。

 あの日。強烈な揺れにぼうぜんとし、身動きが取れなかった。気が付くと10人ほどいた患者を看護師らが帰宅させており、地震から10分後には鵜浦さんも妻(55)と一緒に車で避難し始めることができた。

 「彼女たちの適切な判断がなければ自分も患者も命はなかった」

 自宅兼医院を失った。今は、被災を免れた市内の実家に身を寄せ、県立高田病院の仮診療所でボランティア診療を続けている。

 東北大卒業後、故郷の陸前高田市に戻り、内科医院を開業。海と山に囲まれ、何よりも人々が穏やかなこの町が大好きだ。

 正直「もう医院を建て直すのは無理かな」と感じていた。だが患者たちから「いつ再開するの」「早く診察してくれ」と要望された。

 「医療がなくなれば町から人がいなくなる」。考えたのがプレハブの仮設診療所だった。検査機器やパソコンはリース。被災者は保険証がなくても受診でき、窓口負担は厚生労働省の通知で5月末まで免除される。

 いずれは災害に強い医院をこの地で再開するつもりだ。

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「温かいお茶飲みたい」「風呂入りたい」

2011年04月14日 00時31分47秒 | 地域
京都・「災害支援ナース」堀教授ら被災地語る 「今、何が必要か」
2011年4月13日 提供:毎日新聞社

東日本大震災:「災害支援ナース」堀教授ら被災地語る 「今、何が必要か」 /京都

 ◇「温かいお茶飲みたい」「風呂入りたい」

 東日本大震災に「災害支援ナース」として派遣された京都橘大看護学部の堀妙子教授(46)と上山晃太朗助手(30)が帰京し、被災地の様子を語った。2人は「看護師として、相手が被災者であっても患者であっても、『今、彼らが何を必要としているのか』を考え続ける事は変わらないと実感した。その事を学生に伝えたい」と話した。【広瀬登】

 府看護協会からの要請を受け、堀教授は3月26~29日、上山助手は同25~28日、それぞれ宮城県の石巻市立釜小と南三陸町立志津川小へ派遣された。堀教授によると、釜小への避難者は約300人。電気や水道などライフラインはすべてストップしていた。特にトイレが詰まっているため使えず、段ボールで作られた簡易トイレでしのいでいたという。泥で真っ黒の手をしている被災者もおり、堀教授は感染症防止のため、やかんに入れたお湯で一人一人の手を洗う活動も行った。

 校庭の木につかまり津波から助かった小学生もいたといい、堀教授は「友達が亡くなっている中、今後、(生き残った生徒たちは)どのように体験を消化していくのだろうか」と心配顔。水も燃料も足りず、「『温かいお茶が飲みたい』『風呂に入りたい』と訴える声があった」と振り返った。

 一方、上山助手が活動した志津川小には約500人が滞在。灯油の配給もあり、水は毎朝、プールからバケツリレーで運んだという。上山助手は避難所の診療所で、昼は医師の補助、夜は被災者のおむつを替えたりトイレの介助をしたりした。

 医師や看護師らも被災しており、お互いに体験を話す機会もあった。上山助手は「高齢者を車で避難させている時に津波に流されたという女性ヘルパーがいた。彼女は車と車の間に必死にしがみついて助かったが、少しの揺れでも動悸(どうき)がして、居ても立ってもいられないようだった」と話した。

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300遺体に絶句 

2011年04月14日 00時30分51秒 | 地域
(埼玉)石巻の体育館 300遺体に絶句  派遣医が見た惨状
2011年4月13日 提供:読売新聞

震災5日後、現地入り

 東日本大震災から1か月。被災地に派遣された県医師会医療チームの一人が、重い口を開いた。地震発生の5日後、先陣を切って現地入りした三郷市の外科医・森野一英さん(61)。「二度と思い出したくない惨状だった」。いまも眠れない夜が続いていると打ち明けた。

 宮城県石巻市の市総合体育館。だだっ広く、底冷えのする館内に足を踏み入れた途端、言葉を失った。300体もの遺体が隙間なく横たわっていた。ズボンが脱げ、靴をはいていない人。小さな遺体も数多くあった。3月15日、被災者治療のため、車に医薬品を満載し、三郷市の医師2人と救急救命士ら計6人で向かったが、現地で依頼されたのは、人手不足で進んでいない遺体の検視だった。

 森野さんら3人は戸惑いながら、翌日から任務に取りかかった。体育館の一角に卓球台などで仕切りをつくり、警察官と一緒に3班に分かれて作業した。

 服に水を含んだ重い遺体を警察官が6人がかりで移動させた。顔や髪についた泥をタオルで拭いた。バケツの水はすぐに黒くなったが、断水のため、3-4人に1回しか交換できなかった。森野さんらは何度も何度も丁寧に拭き続けた。

 服を脱がせ、外傷を目視で確認し、体に触れて骨折の有無を調べた。身元不明の場合には、心臓に注射器を差し込み、DNA鑑定用の血液を採取した。初日こそピンク色をしていた遺体は、次第に色を失い、開けっ放しの窓から入り込む空気で冷たくなっていった。幼児の検視はつらかった。森野さんにとって、大きな傷がある子がいなかったのが唯一の救いだった。

 死因「津波による溺死」、死亡時刻「11日夕」……、死体検案書は一枚一枚、ペンで書いた。少しでも書き損じると一から書き直した。「その人の人生を終わらせるための書類。我々にできることは、丁寧に書くことしかなかった」と森野さんは言う。18日までの3日間に、警察に渡した検案書は200枚以上に達した。

   ■1か月、今も眠れぬ夜

 体育館では、我が子の顔に手を添えて「私が悪かった」と泣き叫ぶ母親、妻と2人の子どもの遺体の前で、じっと立ち尽くす男性がいた。案内役の市職員は、自らも被災者でありながら、30分、1時間と立ったまま遺族に寄り添っていた。「見ていられない光景だった。見ないようにしていたが、体育館のあちこちでむせび泣きが聞こえた」

 かつて救急病院の医師を経験し、人の死と向き合ってきたが、被災地から戻ると一人で眠れなくなった。チームを組んだ三郷市の内科医・青木成夫さん(55)が毎晩のように森野さんの診療所に来て、酒をあおって一緒に眠った。夜中にうなされて目を覚ます。やはり眠れないのか、隣で青木さんが起きていることがあった。いまでも石巻での活動について、互いに話題にすることはない。

 県医師会からこれまで、のべ14グループ47人が被災地に派遣された。

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元気な5月を

2011年04月14日 00時25分17秒 | 私自身や健康
ラッパ水仙の早咲きが終わり
チューリップが咲き出す
そう
もう
4月も半ば
桜は遅かったけど
17日まで咲き続けて
我が目を楽しませておくれ

津波も地震も
悲しみの大きさに
驚いているか

原発の
偏見も
致仕方ない国民性か

春らしくないニュースを
めくりたくない私なのに

体育館の300の遺体
検視する医療関係警察役場の方々
涙も枯れる家族の悲しみに
なお
深く
心痛んで

日本が
戦争から
遠ざかり
原爆も
遠ざかり
忘れてはいないけど
遠くに追いやっていたかも

またさらに
現在に強くよみがえらせて

利便の犠牲・・・・

小さき地球を
さらにすかすかに
また
毒の廃棄場に
してはいけない

ニュースに目と耳をそらしながら
小さき心を守る
エネルギーの温存

痛々しさは
言葉にできないけれど
やはり
もう
守りに入って

元気な5月を
祈っていこう


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