わが国の国民皆保険制度の契機となった「ベバ
リッジ報告」とは,1942 年,第二次世界大戦中の
イギリスにおいて,当時の首相であったチャーチル
が,大戦に勝っても負けても,国民も社会も混乱し
て復興が困難であると危惧し,国民に希望を与えて
戦後の混乱期を乗り越え,社会を復興させるための
施策の立案をベバリッジ委員会に負託して作成され
た政策提言である。当初は,社会復興の対策として
財政的,経済的に主として検討されたが,委員長の
ベバリッジが強いリーダーシップを発揮して,戦後
の混乱した社会を復興させるには,総合的な社会保
障制度の確立が最も重要であるとし,貧困,失業,
疾病対策などを柱とする,省庁の枠組みを越えた政
策提言を行った。1942 年11 月に発表され, 2 カ月
後には国民の95 %がその内容を知り,88 %が賛成
するという圧倒的な支持を得て,戦中の混乱期に
人々に明るい希望を与え,実際に戦後の社会復興に
大きな貢献をした。医療は原則無料となった。
わが国も,このようなベバリッジ報告に触発され
た社会保障審議会の「50 年勧告」に基づいて,
1958 年に国民健康保険法が改正され,50 年前の
1961 年に,ついに国民皆保険が達成され,すべて
の国民に医療の平等な給付とフリーアクセスが保障
されることになった。
■ 国民皆保険制度が果たした大きな役割
医療のフリーアクセスが保障されるようになっ
て,それまで困難であった入院治療が広く受け入れ
られるようになり,また公衆衛生のインフラ整備が
進んだこともあって,わが国は世界一の長寿国とな
り,国民は健康を享受できるようになった。一方,
国民の医療需要が著しく増加したにもかかわらず,
医療の水準が高く保たれ,また国民医療費は先進国
の中でも最も低いレベルに抑えられ,2000 年の世界
保健機構(WHO)の評価でも世界で最も効率的で
優れた医療が行われていると認定された。これは,
わが国では医師に優秀な人材が集まっているととも
に,ヒポクラテス以来の医師の社会的使命感に基づ
いて今日まで,献身的に診療が行われてきた証しと
もいえる。
さらに,国民皆保険制度は,今日まで国民の健康
被害時に大きな役割を果たし,国民の健康を見事に
守ってきた。直近の例では,新型インフルエンザ流
行時に病診連携のもと,発症早期に患者への迅速で
適切な対応が行われて重症化を防ぎ,わが国の死亡
率は人口10 万人あたり0. 16 と,他の先進国の数分
の一から数十分の一に低く抑えることに成功したこ
とは画期的な実績であるといえる。
■ 国民皆保険制度の課題
わが国では,発足当初より,保険制度の保険者が
複数分立して複雑な構成になっており,現在では給
付と負担の公平性の確保を困難にしている大きな障
壁になっている。
また,医療機関への支払いが診療報酬制度に基づ
くことになり,そして診療報酬がモノと技術が一体
として算定され,医療が質より量を求めることに
なった。さらには,診療報酬が国からの財政支援を
受けることになって,一物一価の公定価格が定めら
れ,診療報酬を介して政策的な関与,行政的な関与
が大きくなり,医療は国からの厳しい事前チェック
を受けながら行うシステムとなった。その結果,国
民医療費が先進国中最も低いレベルにありながら,
厳しい医療費抑制政策がとられ,医療危機が社会的
にも大きく注目されるところとなった。
このような社会保障政策の転換は,再びイギリス
の動向に大きな影響を受けたものと思われる。すな
わち,1972 年に政権を獲得したサッチャー首相は,
ベバリッジ報告以来継続された手厚い社会保障政策
に国民が依存するようになり,地域社会や家族扶助
といった伝統の気風が失われたとして,新自由主義
に基づいた経済政策の展開による改革を推進した。
わが国もこれを受けて,1982 年に第二次臨時行政
調査会が,歳出削減と民間資本の活用を柱とする行
政改革による財政再建を目指した答申を発表した。
その後,バブル経済が発生して,一時,社会的な関
心は薄れたが,その崩壊後には社会保障,特に医療
についての財政,経済的な締めつけが強まり,2002
年にはいわゆる「骨太の方針2002 」により,合理
化と適正化をキーワードに社会保障費の削減が図ら
れ,2007 年度からは,医療費を5 年間,毎年2, 200
億円削減する政策により,医療機関,特に病院の運
営がさらに困難になるとともに,国民皆保険制度の
維持も極めて厳しい状況になった。
■ 国民皆保険制度の今後
人口の急激な高齢化と医療の高度化により,医療
費はさらに増加するものと予測される。一方,わが
国を取り巻く経済的な環境はますます厳しさを増
し,経済成長の停滞は避けられない状況にある。そ
の結果,増大する医療費は,このままでは個人の負
担に転嫁されることになるが,現在の3 割負担以上
に増額することは困難といえる。一方の,国民健康
保険を支える保険料の負担も,限界に近く増額され
ている。特に,高齢者に対する高額な医療費を支援
する現役勤労者への負担増が大きな課題になってい
る。
このように,わが国は医療ニーズの増大による医
療費の増加と,経済の停滞による負担増により,国
民皆保険制度の存続が危ぶまれている状況にあり,
その打開が社会的にも,政治的にも大きな課題に
なっている。そこには,診療報酬改定などによる短
期的な対応と,中・長期的な視点からの対応が必要
であるが,制度存続がかかる課題には,少なくとも
中期的な打開策の検討は欠かせない。
国民皆保険制度を人口の高齢化と医療の高度化に
耐えて存続させるには,財政的なしくみの再構築,
医療提供体制の見直し,そして国民の理解が必要で,
それぞれの課題への将来を見据えた取り組みが重要
である。
それにはまず,財政的な構造改革が必要である。
現在の増大する医療費に対して,国民の一般会計か
らの繰り入れには財源的に限界があり,また患者側
のさらなる負担増は望めないことから,リスクの分
散と,公平な給付と負担の視点より,消費税の投入
以外に方策はないと思う。そのためには,消費税を
社会保障に対する目的税として位置付け,さらに,
税の透明性を保つための社会保障番号の導入は避け
られない。医療提供体制の見直しは,病診連携のさ
らなる推進と,地域における病院の患者の視点に
立った機能分担,そして専門医療職の業務内容の見
直しなどによる,医療,特に病院の生産性向上が欠
かせない。このような改革を実現するには,国民の
理解と医療への信頼が必要となる。それには,医療
側が,なるべく分かりやすく説明して,努めて情報
の非対称を解消し,治療の選択に可能な限り患者の
価値観を反映するべく努力することが重要である。
国民も患者も医療の内容,特に個々の人々に対する
医療の難しさ,不確実さを理解するとともに,医療
は社会が共有する限られた資源であり,フリーアク
セスといえどもその適正な使用を,十分に理解して
判断することが大きな責任となる。国民と医療者が
相互理解を深め,協力して多くの困難を乗り越えて,
国民皆保険制度を維持しなければならない。