<新潟総鎮守 白山神社(2)>
新潟は、江戸時代には北前舟の港、維新前には日米修好通商条約によって開港五港のひとつとして、日本海側の要の港町として栄えてきた。北前舟のころの酒田ほどの賑わいではないだろうけども。
駐車場に向かう途中に「燕喜館(えんきかん)」という瀟洒な建物があった。
明治から昭和にかけて活躍した豪商、新潟三大財閥のひとつの三代目「齋藤喜十郎」の邸宅の一部を白山公園内に移築再建したもので、国の登録有形文化財である。
入館無料と書いてあったので、すかさず寄ってみることにした。
玄関を入ったところにある事務室でご丁寧にパンフレットまでいただき、なんとなく申し訳ないので入館料代わりに抹茶を頼むことにした。四百円という値段もジツに手ごろである。
どこで待てばいいか尋ねると、いまは空いているので見つけてくれるという。なんという気のきいたお女中、じゃなかった係の女性の親切さに感心する。
広い奥座敷で和装演者が琴、三味線、尺八を使って、いかにもこの館の雰囲気に相応しいたぶん筝曲(そうきょく)と呼ぶのだろう、古典の邦楽の一種が催されていた。
奥に玄関がもうひとつあるが、こちらが正式な玄関だそうだ。
漢学者で書家でもある長三州の扁額が掛けられている。「燕喜館(えんきかん)」の名称は唐時代の思想家「韓癒」の「燕喜亭記」に由来し、「宴を催し、楽しみ喜ぶ」という意味から齋藤家が命名したそうである。
玄関入口脇には陶芸家「浅見五郎介」の明治十五年作陶の渋い灯篭があった。
広間のシャンデリアも立派であるが、居室にある照明器具の、滑車と陶器に入れられた錘で上げ下げされるところがとてもユニークで面白い。
居室からみえる庭には、浅見五郎介の陶法の師匠である三代目清水六兵衛作の灯篭があった。
前座敷に戻ったところで抹茶を運ぶ女性に無事に遭遇した。
茶菓子は好みではなかったが、あまりの空腹に作法を忘れ一瞬で食べてしまう。
(腹減ったな。もう贅沢いわず、なんでもいいから早くナンカ喰いたい・・・)
茶菓子も喰いごたえのあるダンゴが良かったな。
胡坐をかいて、いかにも茶人めいた所作で抹茶をゆったり喫しながら、和敬清寂などどこへやら、餓鬼めいた邪念だけが頭のなかをぐるぐると駆け巡るのであった。
→「新潟総鎮守 白山神社(1)」の記事はこちら
→「酒田、相馬楼」の記事はこちら
→「湯田上温泉(1)」の記事はこちら
新潟は、江戸時代には北前舟の港、維新前には日米修好通商条約によって開港五港のひとつとして、日本海側の要の港町として栄えてきた。北前舟のころの酒田ほどの賑わいではないだろうけども。
駐車場に向かう途中に「燕喜館(えんきかん)」という瀟洒な建物があった。
明治から昭和にかけて活躍した豪商、新潟三大財閥のひとつの三代目「齋藤喜十郎」の邸宅の一部を白山公園内に移築再建したもので、国の登録有形文化財である。
入館無料と書いてあったので、すかさず寄ってみることにした。
玄関を入ったところにある事務室でご丁寧にパンフレットまでいただき、なんとなく申し訳ないので入館料代わりに抹茶を頼むことにした。四百円という値段もジツに手ごろである。
どこで待てばいいか尋ねると、いまは空いているので見つけてくれるという。なんという気のきいたお女中、じゃなかった係の女性の親切さに感心する。
広い奥座敷で和装演者が琴、三味線、尺八を使って、いかにもこの館の雰囲気に相応しいたぶん筝曲(そうきょく)と呼ぶのだろう、古典の邦楽の一種が催されていた。
奥に玄関がもうひとつあるが、こちらが正式な玄関だそうだ。
漢学者で書家でもある長三州の扁額が掛けられている。「燕喜館(えんきかん)」の名称は唐時代の思想家「韓癒」の「燕喜亭記」に由来し、「宴を催し、楽しみ喜ぶ」という意味から齋藤家が命名したそうである。
玄関入口脇には陶芸家「浅見五郎介」の明治十五年作陶の渋い灯篭があった。
広間のシャンデリアも立派であるが、居室にある照明器具の、滑車と陶器に入れられた錘で上げ下げされるところがとてもユニークで面白い。
居室からみえる庭には、浅見五郎介の陶法の師匠である三代目清水六兵衛作の灯篭があった。
前座敷に戻ったところで抹茶を運ぶ女性に無事に遭遇した。
茶菓子は好みではなかったが、あまりの空腹に作法を忘れ一瞬で食べてしまう。
(腹減ったな。もう贅沢いわず、なんでもいいから早くナンカ喰いたい・・・)
茶菓子も喰いごたえのあるダンゴが良かったな。
胡坐をかいて、いかにも茶人めいた所作で抹茶をゆったり喫しながら、和敬清寂などどこへやら、餓鬼めいた邪念だけが頭のなかをぐるぐると駆け巡るのであった。
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