貸切の露天風呂で大満足したその足で、隣の大浴場にも行ってみた。大浴場の内湯は貸切露天風呂以上の広さがあるが、すこし温めであった。深めの浴槽には湯の花が湯に浮遊しており、底にうっすらと沈殿しているのはなかなかに嬉しい。外の露天風呂は貸切に比べれば貧弱である。どうやら帰るまで、内湯のほうに何度も入ることになりそうだ。大浴場出たところで水分補給して部屋に戻ると、窓辺で焼酎の水割りをゆっくりと呑む . . . 本文を読む
江戸ゾーンから東京ゾーンに移動する。文明開化のコーナーも、関東大震災や大空襲のコーナーも申し訳ないが正直あまり心が魅かれない。「浅草十二階」だけ、ちょっと立ち止まる。正式名称「凌雲閣(りょううんかく)」は明治から大正末期まで浅草にあった塔で、関東大震災で半壊してしまい解体されたのだ。歴史で明治大正はうといのだがわたしは、たとえば「門司港驛」などのような明治大正の頃築の、ミニチュアではなく現存するクラシックな建築物をみるのが大好きである . . . 本文を読む
「ダケ温泉に行ってきました」同僚にそう言われると、「福島県のダケですか?」と必ず訊き返してしまう。まったく同じ発音で、東日本には福島の岳温泉と青森の嶽温泉があるからだ。福島県の中央、東北道の西側の中通りには北から南へ、高湯温泉、土湯温泉、岳温泉と名湯が並ぶ。土湯のそばにはわたしの好きな野地温泉もある。岳温泉は、温泉の初心者だったころだからもう十五年以上前に行った以来再訪していない。青森の嶽温泉も久しぶりに行ったことだし、たまにはいってみるか . . . 本文を読む
とにかく、どえらく旨い中華そばに米沢で出逢ってしまったのであった。米沢の郊外はいまちょうど実りの季節を迎えていた。稲穂も収穫の時期が近い。蕎麦の花も一面満開でとてもきれいだった。こちらの収穫はあと一カ月くらいだろうか。米沢ラーメンの「かわにし食堂」は不便な立地である。米沢から車で十五分、最寄りの置賜駅からも二キロ半歩かねばならないところにある。ナビに住所を打ちこみ、なんとか辿りついた。開店したばかりなので、すぐに座れた。カウンター席が五人ほど、テーブルが三卓、小上がりが三卓、奥の座敷は十五人ぐらい座れそうである。一応、メニューを形ばかり検討するが「中華そば」に決めていた . . . 本文を読む
江戸時代好きなので、展示物を見ているうちにいろいろ空想してしまう。江戸時代の職人、たとえば身入りのいい大工の一日の手間賃は銀三匁だったそうである。銀六十匁が一両だから、二十日で稼ぐ。長屋の家賃は月五百文、現在の価格で七千五百円ぐらいだった。娯楽の花形である歌舞伎だが、大衆席でも銀十二匁と大工の手間賃四日分とかなり高い。江戸三座は、日本橋魚市場と吉原と並んで「一日千両の商い」といわれるわけだ。 . . . 本文を読む
それでは日本橋を渡って展示を見ていくとしよう。この博物館のいいところは、フラッシュ禁止なところも多いが原則写真撮影が許可されているのである。なんとも懐が深くてありがたい。寛永のころの江戸の町人地。模型なのに、江戸は町人文化、のなんとなく活気が感じられる。同じ寛永のころの大名屋敷。大名だけあって敷地はさすが広いものだ。どちらの縮尺模型も精巧にできていて感心させられる。ボランティアが外国人に英語で展示物の案内をしていた . . . 本文を読む
歴史でわたしが一番好きな時代は群雄割拠の戦国時代(室町時代後期)から、織豊(しょくほう)時代ともいわれる安土桃山時代、そして徳川時代といわれる江戸時代である。時代小説も、その三つの時代を舞台にした小説をとくに好んで読む。両国駅のホームに降り立つと眼の前に「国技館」が、そしてその右横に、これから向かおうとしている「江戸東京博物館」の建物が出迎えるように聳え立っていた。これが初めての訪問である。五所川原「立佞武多の館」や、弘前「津軽藩ねぷた村」、青森「ねぶたの家 ワ・ラッセ」など東北地方の諸施設にいたく感動しているわたしだが、いつでもいける東京の、「江戸」の字が入った博物館なので前からずっと気にはなっていたのだ . . . 本文を読む
ランチメイトという言葉があるが、わたしは昼飯をひとりだけで食べるほうが好みである。ひとに気をつかわず栄養のバランスも考えずそのとき、そのときに一番食べたいものを食べられる店を選びたいからだ。夜はつきあいがいいほうである。なんとか水産という低価格の居酒屋チェーンが好きな呑み仲間がいて、たまにつき合うわたしは、いつもいきなり「かっぱ巻き」を注文して周りを驚かせた。かっぱ巻きが好物ではないのだが、何回かその店でいろいろな料理を食べてみて、これしか口に合うものがなかったからだ。ところで、稲荷寿司はその名のとおり寿司の一種なのに、なぜか寿司屋で食べた記憶がない . . . 本文を読む