<読んだ本 2021年9月>
とかく食べ物屋は当たり外れが多い。当たりが多いわたしでも六割くらいだろうか。ま、決めるのは自分の舌なのだが。
初めて食べた料理が美味しかった場合、その記憶がいくつか重なると、それがそのひとの味の基準となってしまうものだ。
ある土曜日、急にナンが食べたくなってしまった。無性に。
ナンといえばインドカレー、赤坂にいけば間違いないところだが、このご時世である。県境を越えるのもためらうものがある。そういえば、近所にも一軒、インドカレーの店があったことを思いだした。
「いらっしゃい、どうぞ」
店先で逡巡していると思われたのか、自動ドアが開き、店の人に呼び込まれてしまった。よくみるとインド系の店員のようである。もっとも店員がその店の味を保証するものでもない。中国人がやっている中華でも不味い店はあるからね。
店内は思ったよりうす暗く、卓と卓の間は感染対策の背の高いアクリル板で仕切られていた。見回せば客はわたし独りである。
席に坐り、卓に置かれたメニューをみると、どれも存外に安い。Aランチセットは、野菜カレー、ナン又はライス、サラダ、ソフトドリンクは720円と格安である。下手なラーメンよりも安い。よく行く赤坂のインドカレーの店「モティ」で同じセットがサラダ抜きで980円である。
迷わず、Aセットをナン、そしてサラダ抜き、ソフトドリンクはアイス・チャイで注文した。
「カレーの辛さは?」
初めての店で冒険は無用というか無謀、スタンダードこそが無難なので「普通の辛さで」と答えた。
運ばれてきた大きなナンは、焼きたての熱々で指先で千切るのが大変だが、これはこれで期待通り、嬉しい限りだ。
(あれれ、感染でもして「味覚障害」になっちまったんだろうか!)
カレーに浸して口に入れるのだが、野菜カレーの味が思い切り寝ぼけていて味がしない。つまり辛くない、カレーを食べている気が悲しいかなぜんぜんしないのである。辛味もあってこそ、舌休めの“チャイ”も活きてくるというのに。
まあ、ナンだけは及第点だが肝心のカレーが無味に近いので、評価すらできないという大失敗の巻だった。
さて、9月に読んだ本ですが、5冊と今月も低空飛行、年間累計で43冊。
1. ○京都下鴨なぞとき写真帖 柏井壽 PHP文芸文庫
2. ○京都下鴨なぞとき写真帖2 葵祭の車争い 柏井壽 PHP文芸文庫
3. ◎あきない世傳金と銀九 淵泉篇 高田郁 ハルキ文庫
4. ○異変街道(上) 松本清張 講談社文庫
5. ○異変街道(下) 松本清張 講談社文庫
「京都下鴨なぞとき写真帖」もなかなか面白い。三冊目もいずれ出るのだろうか。期待したい。
<いもぼう>は海老芋と棒鱈を銅の鍋で、一昼夜のあいだ一緒に直炊きする。そうすると、それぞれを補い合うてより一層美味しくなる。これは最後の仕上げで<夫婦炊き>と呼ぶと女将は説明する。
『「棒鱈は北海道の海で獲れたんを、三枚におろして、頭と背を取ります。部屋干しして水分を抜いてから、
数か月ほど天日干しします。吊るした状態で、完全に乾燥したら二カ月ほど寝かせて、やっと棒鱈の完成どす。
それをうちで水に戻します。アクも抜かんなりませんので、毎日なんべんも水を替えて、ようやく料理にかかれます。
九州原産の海老芋はアクが強おすさかい、炊く前に念いりにアク抜きをせんなりません。そこまでは別々です。
まだ出会うてもいません。棒鱈と海老芋は、うちの銅鍋ではじめて一緒になります。ことことと、
一緒に炊くと、お互いの持ち味が染み込んでいって、<いもぼう>になるんどす」
「最初はずっと別々でもいいんだ」』
中略
『「棒鱈から出るゼラチン質は、海老芋を包み込んで煮くずれを防ぎます。海老芋から出るアクは
棒鱈を柔らこうします。お互いの足らんとこを補い合いますねん。ようできてますやろ。夫婦も一緒ですがな」』
PHP文芸文庫 柏井壽著「京都なぞとき写真帖」 第四話「円山の枝垂れ桜」より
ふーむ、男が棒鱈で、女が海老芋みたいなものなのか。
鱈と芋の煮た地味な料理か・・・と、いままでまったく<ぼうだら>に興味がなかった。縁がないまま終わるはずのわたしだったが、なんとも途方のない手間暇がかかっている料理だと、初めて知った。これはぜひとも一度食べてみたくなった。
商魂物の本、「あきない世傳金と銀」の九巻目の「淵泉篇」。
昔、大阪商人を主人公にした商魂物や根性物の作品ばかりを書いていた、花登筐(はなとこばこ)という作家がいた。生涯に書いた6000本ともいえる脚本のなかでも「細うで繁盛記」、「ぼてじゃこ物語」などが有名である。もともとは「銭の花」というタイトルなのだが、銭という言葉に関東は抵抗感があるという理由でタイトルを細うで繁盛記に変えて大ヒットした。
「加世(きゃよ)、おみゃーの言うとおりにはさせにゃーで!」
「犬にやる飯はあってもおみゃーにやる飯はにゃーだで!」。
大阪から伊豆熱川の旅館「山水館」に嫁いできた主人公「加世(新珠美千代)」の、夫の妹「正子」役、瓶底眼鏡をかけた富士眞奈美の意地悪な伊豆弁のセリフはいまも忘れられない。
高田郁は花登筐の流れを受けているのでは、と最近思う。とにかく面白くて飽きさせない。そして、元気をくれるのがありがたい。
『弥右衛門は前に書いたものと合わせて、四枚の紙を並べる。
衰颯的景勝 就在盛満中
發生的機縅 即在零落内
「衰える兆しは最も盛んな時に生まれ、新たな盛運の芽生えは何もかも失った時、既に在る。
『菜根譚』ではこのあと、『だからこそ、君子たる者は、安らかな時には油断せずに一心を堅く守って
次に来る災難に備え、また、異変に際した時にはあらゆる忍耐をして、物事が成るように図るべきである』
という内容に続くのです」
弥右衛門の言葉は、五鈴屋の主従の胸を打った。』
新たな盛運の芽生えは何もかも失った時、既に在る・・・か、何もかも変わってしまったコロナ禍のいま、あらゆる忍耐をしていかないといけないな。そう思う。
→「読んだ本 2021年8月」の記事はこちら
とかく食べ物屋は当たり外れが多い。当たりが多いわたしでも六割くらいだろうか。ま、決めるのは自分の舌なのだが。
初めて食べた料理が美味しかった場合、その記憶がいくつか重なると、それがそのひとの味の基準となってしまうものだ。
ある土曜日、急にナンが食べたくなってしまった。無性に。
ナンといえばインドカレー、赤坂にいけば間違いないところだが、このご時世である。県境を越えるのもためらうものがある。そういえば、近所にも一軒、インドカレーの店があったことを思いだした。
「いらっしゃい、どうぞ」
店先で逡巡していると思われたのか、自動ドアが開き、店の人に呼び込まれてしまった。よくみるとインド系の店員のようである。もっとも店員がその店の味を保証するものでもない。中国人がやっている中華でも不味い店はあるからね。
店内は思ったよりうす暗く、卓と卓の間は感染対策の背の高いアクリル板で仕切られていた。見回せば客はわたし独りである。
席に坐り、卓に置かれたメニューをみると、どれも存外に安い。Aランチセットは、野菜カレー、ナン又はライス、サラダ、ソフトドリンクは720円と格安である。下手なラーメンよりも安い。よく行く赤坂のインドカレーの店「モティ」で同じセットがサラダ抜きで980円である。
迷わず、Aセットをナン、そしてサラダ抜き、ソフトドリンクはアイス・チャイで注文した。
「カレーの辛さは?」
初めての店で冒険は無用というか無謀、スタンダードこそが無難なので「普通の辛さで」と答えた。
運ばれてきた大きなナンは、焼きたての熱々で指先で千切るのが大変だが、これはこれで期待通り、嬉しい限りだ。
(あれれ、感染でもして「味覚障害」になっちまったんだろうか!)
カレーに浸して口に入れるのだが、野菜カレーの味が思い切り寝ぼけていて味がしない。つまり辛くない、カレーを食べている気が悲しいかなぜんぜんしないのである。辛味もあってこそ、舌休めの“チャイ”も活きてくるというのに。
まあ、ナンだけは及第点だが肝心のカレーが無味に近いので、評価すらできないという大失敗の巻だった。
さて、9月に読んだ本ですが、5冊と今月も低空飛行、年間累計で43冊。
1. ○京都下鴨なぞとき写真帖 柏井壽 PHP文芸文庫
2. ○京都下鴨なぞとき写真帖2 葵祭の車争い 柏井壽 PHP文芸文庫
3. ◎あきない世傳金と銀九 淵泉篇 高田郁 ハルキ文庫
4. ○異変街道(上) 松本清張 講談社文庫
5. ○異変街道(下) 松本清張 講談社文庫
「京都下鴨なぞとき写真帖」もなかなか面白い。三冊目もいずれ出るのだろうか。期待したい。
<いもぼう>は海老芋と棒鱈を銅の鍋で、一昼夜のあいだ一緒に直炊きする。そうすると、それぞれを補い合うてより一層美味しくなる。これは最後の仕上げで<夫婦炊き>と呼ぶと女将は説明する。
『「棒鱈は北海道の海で獲れたんを、三枚におろして、頭と背を取ります。部屋干しして水分を抜いてから、
数か月ほど天日干しします。吊るした状態で、完全に乾燥したら二カ月ほど寝かせて、やっと棒鱈の完成どす。
それをうちで水に戻します。アクも抜かんなりませんので、毎日なんべんも水を替えて、ようやく料理にかかれます。
九州原産の海老芋はアクが強おすさかい、炊く前に念いりにアク抜きをせんなりません。そこまでは別々です。
まだ出会うてもいません。棒鱈と海老芋は、うちの銅鍋ではじめて一緒になります。ことことと、
一緒に炊くと、お互いの持ち味が染み込んでいって、<いもぼう>になるんどす」
「最初はずっと別々でもいいんだ」』
中略
『「棒鱈から出るゼラチン質は、海老芋を包み込んで煮くずれを防ぎます。海老芋から出るアクは
棒鱈を柔らこうします。お互いの足らんとこを補い合いますねん。ようできてますやろ。夫婦も一緒ですがな」』
PHP文芸文庫 柏井壽著「京都なぞとき写真帖」 第四話「円山の枝垂れ桜」より
ふーむ、男が棒鱈で、女が海老芋みたいなものなのか。
鱈と芋の煮た地味な料理か・・・と、いままでまったく<ぼうだら>に興味がなかった。縁がないまま終わるはずのわたしだったが、なんとも途方のない手間暇がかかっている料理だと、初めて知った。これはぜひとも一度食べてみたくなった。
商魂物の本、「あきない世傳金と銀」の九巻目の「淵泉篇」。
昔、大阪商人を主人公にした商魂物や根性物の作品ばかりを書いていた、花登筐(はなとこばこ)という作家がいた。生涯に書いた6000本ともいえる脚本のなかでも「細うで繁盛記」、「ぼてじゃこ物語」などが有名である。もともとは「銭の花」というタイトルなのだが、銭という言葉に関東は抵抗感があるという理由でタイトルを細うで繁盛記に変えて大ヒットした。
「加世(きゃよ)、おみゃーの言うとおりにはさせにゃーで!」
「犬にやる飯はあってもおみゃーにやる飯はにゃーだで!」。
大阪から伊豆熱川の旅館「山水館」に嫁いできた主人公「加世(新珠美千代)」の、夫の妹「正子」役、瓶底眼鏡をかけた富士眞奈美の意地悪な伊豆弁のセリフはいまも忘れられない。
高田郁は花登筐の流れを受けているのでは、と最近思う。とにかく面白くて飽きさせない。そして、元気をくれるのがありがたい。
『弥右衛門は前に書いたものと合わせて、四枚の紙を並べる。
衰颯的景勝 就在盛満中
發生的機縅 即在零落内
「衰える兆しは最も盛んな時に生まれ、新たな盛運の芽生えは何もかも失った時、既に在る。
『菜根譚』ではこのあと、『だからこそ、君子たる者は、安らかな時には油断せずに一心を堅く守って
次に来る災難に備え、また、異変に際した時にはあらゆる忍耐をして、物事が成るように図るべきである』
という内容に続くのです」
弥右衛門の言葉は、五鈴屋の主従の胸を打った。』
新たな盛運の芽生えは何もかも失った時、既に在る・・・か、何もかも変わってしまったコロナ禍のいま、あらゆる忍耐をしていかないといけないな。そう思う。
→「読んだ本 2021年8月」の記事はこちら
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