<読んだ本 2024年11月と12月>
「破れ星、燃えた」は「破れ星、流れた」に続く二巻目の、脚本家“倉本聰”の自伝だ。
ある年、倉本聰はNHKと喧嘩別れみたいな形で大河ドラマ「勝海舟」を突如降板、札幌に逃避してしまう。
札幌ススキノで無頼の日々をおくるが、やがて北海道に“終の棲家”にする理想の地を探し始める。中標津、根室など一年半かけて北海道を廻り、積丹の美国に決まりかけたが、土地が岩盤で水が出ないことで、また振り出しの“ゼロ”に戻る。
「フラノって知ってるかい?」
ある晩、ススキノで知り合った見知らぬ書道家が一つの地名を持ち出した。それが、富良野という地との運命的出逢いだった。森の中に山小屋を建て、富良野に移住した。
『わが家につながる森の林道に大きな岩が顔を出していて尖ったその角がジープの車輪を傷つける。取り除こうと思ってもでかすぎて僕の力ではどうにもならない。
遊びに来ていた農家の青年に、どうしたらいいかと相談したら、しばらく黙って考えていたが、
「やらねばならんなら、やるしかねぇべ!」
「どうやってやるんだ。重機も何もないンだけど」
すると又しばらく考えて、
「スコップで岩のまわりを掘る。丹念に掘りこんで岩の外形を地上に出す」
「で?」
「丸太を二本探してきて、そいつを梃子にして四方からグズグズ少しずつ持ち上げる」
「―――」
「それを丹念にくり返したら、一日三センチ位動くんでないかい?」
「!」
「十日もやったら一メートルくらい動くべサ」
「―――!」
これには思わずひれ伏した。
一日三センチ十日で一メートル。これは都会の常識で云ったら、もう動かないという範疇である。だがよく冷静に考えてみると一日三センチは動いた、ということである。それを無理だとあきらめてしまうところに都会人の愚かなあやまちがある。そのことに愕然と気づかされたことに、僕は思わず平伏したのである。
このあやまちは何処から来たのか。
そのことを一晩沁々(しみじみ)と考えた。
すると一つの理由が判ってきた。
文明はスピードを重視する、ということである。スピードをもって仕事をせねばならぬ。スピードは文明の一要因である。時間をかければ事は成せるのに、時間をかけるのは良くないと考える。遅いのは悪で速いことが善。これが文明の基準になっている。その為に余計な費用をかける。
このことは更(あら)めねばならぬと思った。』
この“一日三センチ、十日に一メートル”という開拓民の持久の哲学は、人生の難事のときとか、夢を捨てきれないキミに、役立つこともきっとある。(はずだ)
スピード重視や利便性の追求一辺倒もいいけれど、こういう発想(哲学)もあるのだと知ってほしい。
さて、11月と12月に読んだ本ですが、ルーティンの7冊、年間累積では42冊でした。
1. ○秘伝の声 上 池波正太郎 文春文庫
2. ○秘伝の声 下 池波正太郎 文春文庫
3.○風の視線 上 松本清張 光文社文庫
4.○風の視線 下 松本清張 光文社文庫
5.○空白の意匠 松本清張 新潮文庫
6.◎流れ星、燃えた 倉本聰 幻冬舎
7.○彩色江戸切絵図 松本清張 光文社文庫
倉本聰は富良野に移住してのち、あの名作ドラマ「北の国から」を生む。当時、世の中はイケイケドンドンのバブルの時代であった。
北海道には、漁村・農村・炭鉱(ヤマ)と三種の廃屋があった。
『そこらに廃屋は山程ある。電気も水道もテレビもない廃屋はそこらの原野にごろごろしている。そういう荒野の一軒に、都あ会しか知らない今の子供が突然いきなり放りこまれたら、一体どういう反応を起こすのか。
純「電気がない!? 電気がなかったら暮らせませんよッ!」
五郎「そんなことないですよ」
純「夜になったらどうするの!」
五郎「夜になったら眠るンです」
この単純明快な四行のセリフを元に、僕は一本の企画書を書いた。』
前段ではいつも身辺雑記をやめ、今回は後段も含め読んだ一冊の本からの長い引用となってしまった。
「一日三センチ、十日に一メートル」という言葉(開拓民の持久の哲学)、くれぐれもお忘れなきように。
かつて二足のワラジで脚本家を志し、「俄か雨」という一時間ドラマの脚本を「東芝日曜劇場」に応募し見事に落選したワタシも、「もうあきらめたぞ!」とは、まだ誰にも決して言ってはいない。
→「読んだ本 2024年9月と10月」の記事はこちら
「破れ星、燃えた」は「破れ星、流れた」に続く二巻目の、脚本家“倉本聰”の自伝だ。
ある年、倉本聰はNHKと喧嘩別れみたいな形で大河ドラマ「勝海舟」を突如降板、札幌に逃避してしまう。
札幌ススキノで無頼の日々をおくるが、やがて北海道に“終の棲家”にする理想の地を探し始める。中標津、根室など一年半かけて北海道を廻り、積丹の美国に決まりかけたが、土地が岩盤で水が出ないことで、また振り出しの“ゼロ”に戻る。
「フラノって知ってるかい?」
ある晩、ススキノで知り合った見知らぬ書道家が一つの地名を持ち出した。それが、富良野という地との運命的出逢いだった。森の中に山小屋を建て、富良野に移住した。
『わが家につながる森の林道に大きな岩が顔を出していて尖ったその角がジープの車輪を傷つける。取り除こうと思ってもでかすぎて僕の力ではどうにもならない。
遊びに来ていた農家の青年に、どうしたらいいかと相談したら、しばらく黙って考えていたが、
「やらねばならんなら、やるしかねぇべ!」
「どうやってやるんだ。重機も何もないンだけど」
すると又しばらく考えて、
「スコップで岩のまわりを掘る。丹念に掘りこんで岩の外形を地上に出す」
「で?」
「丸太を二本探してきて、そいつを梃子にして四方からグズグズ少しずつ持ち上げる」
「―――」
「それを丹念にくり返したら、一日三センチ位動くんでないかい?」
「!」
「十日もやったら一メートルくらい動くべサ」
「―――!」
これには思わずひれ伏した。
一日三センチ十日で一メートル。これは都会の常識で云ったら、もう動かないという範疇である。だがよく冷静に考えてみると一日三センチは動いた、ということである。それを無理だとあきらめてしまうところに都会人の愚かなあやまちがある。そのことに愕然と気づかされたことに、僕は思わず平伏したのである。
このあやまちは何処から来たのか。
そのことを一晩沁々(しみじみ)と考えた。
すると一つの理由が判ってきた。
文明はスピードを重視する、ということである。スピードをもって仕事をせねばならぬ。スピードは文明の一要因である。時間をかければ事は成せるのに、時間をかけるのは良くないと考える。遅いのは悪で速いことが善。これが文明の基準になっている。その為に余計な費用をかける。
このことは更(あら)めねばならぬと思った。』
この“一日三センチ、十日に一メートル”という開拓民の持久の哲学は、人生の難事のときとか、夢を捨てきれないキミに、役立つこともきっとある。(はずだ)
スピード重視や利便性の追求一辺倒もいいけれど、こういう発想(哲学)もあるのだと知ってほしい。
さて、11月と12月に読んだ本ですが、ルーティンの7冊、年間累積では42冊でした。
1. ○秘伝の声 上 池波正太郎 文春文庫
2. ○秘伝の声 下 池波正太郎 文春文庫
3.○風の視線 上 松本清張 光文社文庫
4.○風の視線 下 松本清張 光文社文庫
5.○空白の意匠 松本清張 新潮文庫
6.◎流れ星、燃えた 倉本聰 幻冬舎
7.○彩色江戸切絵図 松本清張 光文社文庫
倉本聰は富良野に移住してのち、あの名作ドラマ「北の国から」を生む。当時、世の中はイケイケドンドンのバブルの時代であった。
北海道には、漁村・農村・炭鉱(ヤマ)と三種の廃屋があった。
『そこらに廃屋は山程ある。電気も水道もテレビもない廃屋はそこらの原野にごろごろしている。そういう荒野の一軒に、都あ会しか知らない今の子供が突然いきなり放りこまれたら、一体どういう反応を起こすのか。
純「電気がない!? 電気がなかったら暮らせませんよッ!」
五郎「そんなことないですよ」
純「夜になったらどうするの!」
五郎「夜になったら眠るンです」
この単純明快な四行のセリフを元に、僕は一本の企画書を書いた。』
前段ではいつも身辺雑記をやめ、今回は後段も含め読んだ一冊の本からの長い引用となってしまった。
「一日三センチ、十日に一メートル」という言葉(開拓民の持久の哲学)、くれぐれもお忘れなきように。
かつて二足のワラジで脚本家を志し、「俄か雨」という一時間ドラマの脚本を「東芝日曜劇場」に応募し見事に落選したワタシも、「もうあきらめたぞ!」とは、まだ誰にも決して言ってはいない。
→「読んだ本 2024年9月と10月」の記事はこちら
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