<霧島神宮>
「さくらさくら温泉」で、いかにもお手軽罰当たりな禊をすませると、かの坂本龍馬夫妻も訪れたという霧島神宮を詣でることにした。
慶応二年慶一月二十三日(1866年3月8日)、幕府の京都伏見奉行配下の捕り方が寺田屋を包囲した。
それを察知したおりょう(お龍)は風呂から裸で飛び出し、龍馬に危機を知らせ九死に一生を得る。いわゆる寺田屋事件である。
そしておりょうと龍馬は結婚し、薩摩藩の小松帯刀の誘いをうけて、二人は寺田屋事件での傷湯治をかねて薩摩の温泉へ旅をする。
この鹿児島への旅八十八日間・・・が日本最初の新婚旅行であったといわれ、これには、勝海舟やジョン万次郎からの影響がきっとあったのだと思われる。
霧島山(高千穂)の峯にある「天の逆鉾」をみるためにおりょうと高千穂登山をして、その足で霧島神宮をお参りしたそうである。
霧島神宮は火山の麓にあるため、噴火により幾度も炎上した。現在の社殿は正徳五年(1715年)に島津吉貴により再建されたものだ。
本殿内部の柱や梁、長押などは朱漆塗りで、要所を彩色文様や鍍金の飾り金具で装飾され、壁は極彩色の浮彫りをほどこした羽目板を配しているという。なんとも贅をこらしており、「西の日光」と言われる。
国歌に詠まれている「さざれ石」である。
『この石は学名を石灰質角礫岩と云う。石灰石が雨水に溶解してその石灰分をふくん
だ水が時には粘着力の強い乳状体となり、地下において小石を集結して次第に
大きくなる。やがてそれが地上に顕れて国歌に詠まれる如く、千代八千代 年を
へてさざれ石巌となりて苔のむすと云う状は、実に目出度いかぎりである。
この石は国歌発祥の地と云われる岐阜揖斐郡春日村の山中で発見されたもので、
その集結の過程状態はこの石を一見してよく察することが出来る』
見晴らしのよさそうな場所があり、ひとがいっぱいいたので行ってみると、霧島一帯の風景が眼下に広がっていた。
→「さくらさくら温泉(1)」の記事はこちら
→「さくらさくら温泉(2)」の記事はこちら
「さくらさくら温泉」で、いかにもお手軽罰当たりな禊をすませると、かの坂本龍馬夫妻も訪れたという霧島神宮を詣でることにした。
慶応二年慶一月二十三日(1866年3月8日)、幕府の京都伏見奉行配下の捕り方が寺田屋を包囲した。
それを察知したおりょう(お龍)は風呂から裸で飛び出し、龍馬に危機を知らせ九死に一生を得る。いわゆる寺田屋事件である。
そしておりょうと龍馬は結婚し、薩摩藩の小松帯刀の誘いをうけて、二人は寺田屋事件での傷湯治をかねて薩摩の温泉へ旅をする。
この鹿児島への旅八十八日間・・・が日本最初の新婚旅行であったといわれ、これには、勝海舟やジョン万次郎からの影響がきっとあったのだと思われる。
霧島山(高千穂)の峯にある「天の逆鉾」をみるためにおりょうと高千穂登山をして、その足で霧島神宮をお参りしたそうである。
霧島神宮は火山の麓にあるため、噴火により幾度も炎上した。現在の社殿は正徳五年(1715年)に島津吉貴により再建されたものだ。
本殿内部の柱や梁、長押などは朱漆塗りで、要所を彩色文様や鍍金の飾り金具で装飾され、壁は極彩色の浮彫りをほどこした羽目板を配しているという。なんとも贅をこらしており、「西の日光」と言われる。
国歌に詠まれている「さざれ石」である。
『この石は学名を石灰質角礫岩と云う。石灰石が雨水に溶解してその石灰分をふくん
だ水が時には粘着力の強い乳状体となり、地下において小石を集結して次第に
大きくなる。やがてそれが地上に顕れて国歌に詠まれる如く、千代八千代 年を
へてさざれ石巌となりて苔のむすと云う状は、実に目出度いかぎりである。
この石は国歌発祥の地と云われる岐阜揖斐郡春日村の山中で発見されたもので、
その集結の過程状態はこの石を一見してよく察することが出来る』
見晴らしのよさそうな場所があり、ひとがいっぱいいたので行ってみると、霧島一帯の風景が眼下に広がっていた。
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