・・・中尊寺は850年に開山され、12世紀に奥州藤原氏の清衡によって大規模に建設されたものである。
奥州藤原氏の由来については下記の『参考』を読んでください。
・・・上の写真と同じ画面構成で、旅行本などの写真によく採用されているが、たいてい写真には横にある金色堂の碑は写っていない。
本などに採用されている写真の画面に碑が入ってない理由は、画面のバランスの問題か不明ではありますが。
写真の建物は金色堂ではなく昭和40年に作られた新覆堂です。1124年に金色堂が建てられた時は何も覆いがなく、自然環境にさらされていたが鎌倉時代後期に全体を覆う覆堂が建立され、昭和になって、本体の修理と共に覆堂も新しくなった。
「ガラスケースに入った金色堂の写真」
・・・見学は写真禁止なので、本から転載した。
金色堂は覆堂の中のガラスケースに入っていて、写真のように全体が金箔で包まれている。
…中尊寺の見学の最後に参道に有名な弁慶の像が祀ってある「弁慶堂」がありました。
・・・中尊寺は小高い丘にあって、参道から眼下に北上川が見渡せました。
高速道路が現代を思い出させます。
・・・中尊寺を見学して。バスに乗る時から、雨が降り出しました。
今回の旅は天候の面では本当にラッキーな旅でした。
・・・中尊寺の見学の後は宿泊する盛岡から西に行った「つなぎ温泉」に東北自動車道で北上しました。
『参考』
藤原清衡は陸奥国(後の磐城国)亘理の豪族亘理経清と、安倍頼時の娘の間の子として生まれる。亘理経清は、藤原北家の藤原秀郷(俵藤太)の子孫とされており、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に名前が見えていることから、当時藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められていたようである。父・経清は前九年の役で源頼義に反旗を翻し安倍氏に味方したが厨川の戦いで敗れた安倍氏と最後をともにした。この時清衡は七歳であった。敵将の嫡男であったので本来は処刑される運命にあったが、母が安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁することになって危うく難をのがれ、連れ子の清衡も清原武貞の養子となった。
清原家には、清衡の異父異母兄になる武貞の長子真衡、清衡、異父弟になる家衡があったうえに、吉彦秀武が清原武則の従兄弟にして娘婿であるなど複雑な血縁関係で結ばれた一族が存在しており、ややもすると血族の間で内紛が起こり易い状態にあった。
秀武が真衡に背くと、清衡、家衡は秀武に同調して、真衡が秀武討伐に出羽に向かった隙に、真衡の本拠を攻撃した。しかし、陸奥守であった源義家が真衡を支援して清衡、家衡を攻め、清衡、家衡は大敗して逃走し、義家に降伏する。だが、出羽に向かった真衡が直後に急死し、清衡、家衡は、義家の裁定で清原氏の所領を分割相続することになる。義家の裁定は清衡に有利なものであったと推測されており、義家が清原氏弱体化を意図し対立を煽ったとする見解が多数存在している。当然、家衡は裁定に不満を持ち、応徳3年(1086年)に清衡の屋敷を襲撃し、妻子眷属を皆殺しにする。義家は難を逃れた清衡に助力し、家衡を滅ぼした。
後三年の役は清原氏の私闘とされ、何の恩賞もなく清衡にも官位の賞与も無かったが、一族最後の残存者として奥六郡を領する勢力者となった。時に寛治元年(1087年)清衡32歳の事である。その後実父の姓である藤原に復し、奥州藤原氏の祖となった
嘉保年中(1094年 - 1095年)頃には、磐井郡平泉に居を移し、政治文化の中心都市の建設に着手。1108年には中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、奥州藤原氏四代100年の栄華の基礎を築いた。
金銀螺鈿をちりばめた金色堂の落慶の翌年(大治3年)、当時としては長命の73歳で没した。金色堂に納められた清衡の遺骸を調査した結果、血液型はAB型であり、曾孫の泰衡まで四代直系で矛盾はないとされる。清衡の顔は頬骨の秀でた比較的短い顔で、鼻筋が通っている。身長は159cm、手の形は小さく華奢。四肢の筋はよく発達している。体形は痩せ形。レントゲン検査によると、左半身に顕著な骨萎縮が見られ、脳溢血、脳栓塞、脳腫瘍などによる半身不随であったと見られる。発症時期は快方が見込めなくなった頃に妻が筆写納経を行った1117年 - 1119年頃ではないかと推測されている。没年齢は歯の状態から70歳以上と見られ、史料の没年齢と矛盾はないとされる。