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ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

歴史になってしまった記憶

2013年07月15日 05時51分58秒 | 思い出

…今、現在は太平洋戦争(第二次世界大戦)を戦った経験者は、若い人で80歳代、当時責任があったような人は90歳代の年になっている。  後、10年も経つと、戦争経験者はこの世から、ほとんどいなくなってしまう。  今は戦争経験者の口から、戦争のもたらす問題を生活体験として、語られて、聞いた人は実感が湧く。 
  私が小学生のころの、教師のほとんどは戦争経験者でした。  男性教師は兵役を経験していました。  今、話題になっている、体罰は、兵役経験者の教師としては、当時、こぶしで頭を、たたく、くらいは体罰とは考えていなかったように思う。   平手打ちで生徒が倒れるような殴り方を日常教育の中でやっていたように記憶している。   そういう中で、経験として、戦争の悲惨さや間違いを、我々生徒は、教えられていたように思う。 その結果、われわれ世代は高度成長時代を支える社会のモラルも経済も世界では、日本的といわれる特異な形で健全に社会の発展を支えてきた。 

  ここ最近の20年の日本社会は日本的と云う社会の形から、論理的な意味が重要視される西欧化社会に転換し、その結果、以前に比べると、,我々から見ると、何となく、おかしくなってきている。 議論すると論理的で一見正しいように見えるが、昔からの日本的な生き方が、軽んじられる社会になってきた。
 私が小学生の頃は学校の帰りに、雑貨屋さんに寄り道し、軒先で縁台に座る、日露戦争に参戦した老人の話を聞いたり、 母親からは、彼女が子供のころ、近所の年寄りが鳥羽伏見の戦いに参加した老人から、戦争の悲惨さを聞いたりしたことを私がマタギキで聞かされたことを覚えている。
  こういう、近代日本が進んできた戦争の負の道筋についても、われわれは生活の中で見聞きしてきた。  しかし、日本人がもう60年間、戦争を経験しなくなって、戦争経験は、直接、毎日の生活の中では,見聞きしたり、感じられない、歴史の中の出来事になってしまった。
   歴史を考える時は、事は論理的思考の対象になり、生活の経験とは、かけ離れてくる。  そうすると、今の置かれている状況から、論理的に、正しければ軍隊を持つようになり、外国の戦争に派兵するようなことになっていくでしょう。
  昔、日本人が苦しんだ戦争の生活経験は生かされなくなっていく。 肌で感じる痛みを時と共に、忘れる人間は、それを引きおこす間違いを犯してしまう。 そして、過去に反省した同じ過ちを、また繰り返してしまう。

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