墓の近くにある「上ヌカー」
墓の入り口の目印となる伊良皆郵便局
第一尚氏王統は、第二尚氏によって墓や遺骨までも、葬り去られようとしていた。
それを阻止しようと骨を墓から持ち出し、
王統の墓と気付かれないように、名も無き乞食墓として仮納骨し、
難を逃れたと言われている。
そんな難を逃れて納められた第一尚氏の墓が
読谷 ( よみたん ) 村の伊良皆 ( いらみな ) 旧集落の通称サシチムイにあり、
それは、米軍の黙認耕作地帯の中にある。
巴志は1372年に南部地方の佐敷 ( さしき ) に産まれます。
巴志は隣地の大里 ( おおざと ) グスクを攻略して勢力をつけると、
当時の中山王であった武寧 ( ぶねい ) の政治が乱れているのを理由に武寧を討ちます。
その後、父の思紹 ( ししょう ) を中山王へ即位させて自らは山北王を討伐します。
1421年に思紹が死去して、翌年51歳で王位を継いで在位期間中に山南王を滅ぼし、
単独王統による初めての統一国家を樹立して、初代琉球国王となりました。
1430年、明(中国)の皇帝から皮弁服 ( ひべんふく ) や王御冠 ( たまんちゃーぶい ) が送られ、
巴志は正式な琉球国王と認められます。翌年には皇帝より 『 尚姓 』 を賜ります。
尚姓は国王以外に名乗る事を許さない姓である。
尚巴志は1439年6月1日に死去し、墓は首里グスク近くに建てられたとされています。
神号は 『 勢治高真物 ( せじたかまもの ) 』 とされました。
1469年、重臣だった内間 金丸 ( うちま かなまる ) が当時の王、尚徳の政治に反発して
クーデターに成功します。
尚巴志の墓が破壊されると聞き付けた旧臣の平田子 ( ひらたしー ) と屋比久子 ( やびくしー ) が、
墓から尚巴志の遺骨を持ち出して読谷山 ( ゆんたんざ、現 読谷村 ) へ隠し、
現在の場所へ葬ったといわれており、
平田子は伊良皆の 「 根人 ( にっちゅ ) 村創設の人 」 といわれている。