震洋が格納されている呑之浦
加計呂麻島は太平洋戦争当時、軍の秘密基地などに利用された。
北部の薩川湾は戦艦大和や武蔵が停泊した港として有名。
「文学の森公園」がある呑之浦(のみのうら)はかつて特攻水雷艇「震洋」の基地があった所である。
震洋は、小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約250kg)を搭載し、
搭乗員が乗り込んで操縦し、上陸船団に体当たり攻撃する特攻兵器。
末期は敵艦船の銃座増加に伴い、これを破壊し到達するために2発のロケット弾が搭載された。
また、2人乗りのタイプもあり、こちらには機銃1~2丁が搭載され、指揮官艇として使用された。
震洋の構想は1943年ごろすでに黒島亀人連合艦隊主席参謀が語っていた。
終戦までに6000隻が生産された。
1944年8月大森仙太郎特攻部長から明治維新の船名から「震洋」と命名される。
秘匿名称は「○四(○の中に四)金物」(マルヨンかなもの)、
○四兵器。マルレと合わせて○ハとも呼ばれた。
なお、陸軍の四式肉薄攻撃艇(マルレ)とともに水上特攻兵器として知られるが、
マルレは最初から特攻艇として開発されたものではない(四式肉薄攻撃艇#開発の経緯)。
加計呂麻島の呑之浦に配備された第十八震洋特攻隊の隊長は島尾敏雄である。
島尾敏雄は震洋特攻隊の生き残りとして、その時の体験を純文学小説として書き上げた。
著書は多数。代表作は 『 死の棘 』 『 出発は遂に訪れず 』 『 震洋発進 』 等。
数々の賞を受賞しているが、島尾敏雄の没後、
『死の棘』は1990年に映画化、カンヌ映画祭でグランプリを取った作品である。
ちなみに作家の 『 島尾ミホ 』 は妻、写真家の 『 島尾伸三 』 は息子、
そして漫画家の 『 しまお まほ 』 は孫でになる。