「 願主 長岡五郎 三郎源興就 」 と彫られている
「天保十一庚子年」と彫られている
この鳥居は、御領組大庄屋の長岡興就 ( おきなり ) により、
天保11年 ( 1840年 ) に奉納された鳥居である。
長岡家は肥後藩主の細川家の出自、
開祖の長岡興秋は細川忠興公とガラシャ夫人 ( 明智光秀の娘 ) との間に生まれた子とされており、
興就は11代目の大庄屋の役を継ぐ。
興就は農民救済のため、弘化2年に当時はご法度である越訴 ( おっそ ) を行い、
「 天草百姓相続方仕法 」 再発布を懇願した人である。
翌年、待望の 「 天草百姓相続方仕法 」 は発布されたが、興就は越訴の罪に問われ入牢した。
その後、一時帰宅を許されるが、相続方仕法の内容と入牢に対する不満により、
弘化4年 ( 1847年 ) 「弘化の大一揆」へと繋がって行く。
その一揆の後、首謀者である古江村庄屋の永田隆三郎と共に捕らえられ、
再び入牢の罪を受けけ、4年後には大庄屋役を没収された。
その後、興就は佐伊津村の中村家に預けられ明治2年に没し、墓地は芳證寺境内にある。
この鳥居は、越訴の7年前に建立されたもので、
柱に 「 願主 長岡五郎三郎源興就 」 とあり、
興就の悲願の程が窺える。
所在地 / 熊本県天草市五和町御領6846 ( 御領神社 )