「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

第2位 みずがめ座 ・ 今日のラッキーポイント 「 白いバック 」

2015-08-29 07:00:41 | 今日の占い ・ 二十八宿とコトバ

              昨日は1位だったけれど
              ヘトヘトに疲れるほど
              朝イチから鍛われた

              占いは
              悪いコトは当たっても
              良いコトは当たらないもの

              人生と同じだ





長崎県五島市 ・ 堂崎天主堂 「 マルマン・ペルー復活の夜明け像 」

2015-08-29 01:41:37 | 教会







「復活の夜明け」と名付けられたマルマン・ペルー像の説明板には、

「 1873年キリシタン禁制高札撤去後の日本宣教は、
パリ外国宣教会によって行われる。
堂崎にはフレノ師につづき初代主任司祭マルマン師が訪れた。
マルマン師は1877年より約10年間下五頭全域の宣教、
潜伏キリシタンの復帰に努めながら、
奥浦慈恵院へと続く孤児・貧児の救済事業を始めた。

1888年よりペルー師が2代目主任司祭となり、
1899年には井持浦に日本最初のルルド建立、
1908年5月10日に現在の赤レンガゴシック様式堂崎天主堂を献堂し
30年に及ぶ宣教司牧の日々を堂崎に捧げた。 」


寛政9 ( 1797 ) 年大村藩から五島への移住が始まり、
約3年の間に3,000人が移り住みました。
彼らは、地区の寺の壇徒となり仏教徒を装い、
密かにキリスト教の信仰を守っていたといわれています。
日本における江戸時代の教会の歴史には悲惨な物語が多く残されています。
それは、五島でも例外ではありませんでした。
しかし、明治に入っても、元(1868)年の久賀島牢屋の窄殉教事件をきっかけに
奥浦地区でもキリシタンに対する拷問や捕縛、入牢などの迫害が行われました。
それが、明治6 ( 1873 ) 年、ようやく禁教の高札撤去がなされると
いち早くフレノ師が来島し、
この堂崎の浜辺で五島初のクリスマスミサが捧げられたことが
地元で語り継がれています。
明治10年には司祭が常駐するようになり、五島での本格的な司牧が開始され、
以後島内各地に小教区制度が整うまで、
堂崎は五島キリシタン復活後の拠点としての重要な役割を果たすことになるのです。



長崎県新上五島町  「 若松大橋 」

2015-08-29 01:13:41 | 橋 ・ 鉄橋 ・ ダム ・ 隧道・道



























場所  /   新上五島町中通島
橋梁延長 /  522.0m
架設年次 /  1991年

若松島と上五島の中通島とを結ぶ全長522メートルのライトグレーの橋。
開通は平成3年 ( 1993年 ) で、
この架橋により「離島の離島」という若松島の地理気的悪条件が改善された。
周囲は西海国立公園に指定されており、
龍観山展望台からは青い海に映える若松大橋や
フェリーの行きかう若松瀬戸を眼下に一望できる。



競馬点描 ・ 心象風景 「 たてがみ 」

2015-08-29 00:00:41 | 馬の詩 ・ それぞれ...







       蝉しぐれが降り
       赤トンボが舞う
       小倉競馬場に

       秋の訪れを告げる
       木漏れ日は

       その背に
       たてがみに ・・・