「復活の夜明け」と名付けられたマルマン・ペルー像の説明板には、
「 1873年キリシタン禁制高札撤去後の日本宣教は、
パリ外国宣教会によって行われる。
堂崎にはフレノ師につづき初代主任司祭マルマン師が訪れた。
マルマン師は1877年より約10年間下五頭全域の宣教、
潜伏キリシタンの復帰に努めながら、
奥浦慈恵院へと続く孤児・貧児の救済事業を始めた。
1888年よりペルー師が2代目主任司祭となり、
1899年には井持浦に日本最初のルルド建立、
1908年5月10日に現在の赤レンガゴシック様式堂崎天主堂を献堂し
30年に及ぶ宣教司牧の日々を堂崎に捧げた。 」
寛政9 ( 1797 ) 年大村藩から五島への移住が始まり、
約3年の間に3,000人が移り住みました。
彼らは、地区の寺の壇徒となり仏教徒を装い、
密かにキリスト教の信仰を守っていたといわれています。
日本における江戸時代の教会の歴史には悲惨な物語が多く残されています。
それは、五島でも例外ではありませんでした。
しかし、明治に入っても、元(1868)年の久賀島牢屋の窄殉教事件をきっかけに
奥浦地区でもキリシタンに対する拷問や捕縛、入牢などの迫害が行われました。
それが、明治6 ( 1873 ) 年、ようやく禁教の高札撤去がなされると
いち早くフレノ師が来島し、
この堂崎の浜辺で五島初のクリスマスミサが捧げられたことが
地元で語り継がれています。
明治10年には司祭が常駐するようになり、五島での本格的な司牧が開始され、
以後島内各地に小教区制度が整うまで、
堂崎は五島キリシタン復活後の拠点としての重要な役割を果たすことになるのです。