旧日本海軍・零式艦上戦闘機三二型 ( 世界で唯一の現存機 )
現存するエンジン
復元された操縦機器メータ
カマボコ型をした大刀洗平和記念館
大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊(当初分教所)は、
昭和16年末知覧飛行場の完成を待って創立、
先ず第10期少年飛行兵の教育を開始、
以後、少年飛行兵、下士官学生、特別操縦見習仕官等が相次で入隊、
猛烈な教育訓練の下、数多の飛行機操縦者が巣立った処である。
然るに教育期間僅か2年9ヶ月にして戦局の推移と
知覧飛行場の地理的戦略的関係により、
昭和19年9月、町民の念願も空しく教育隊は解隊、
その前後に隊員は京城を初め、内外の各教育隊に転属、
後には飛行戦隊が駐留、昭和20年には遂に特攻の基地と化した。
南北朝時代、筑後川の戦いで勝利した菊池武光が
太刀を洗ったというこの戦跡の地に、
陸軍の飛行場が設立されたのは大正8年(1919年)のことでした。
以来、時局の移り変わりに応じて部隊、設備も逐次増強され、
さらに幾多の変遷のなかで、
基幹部隊である『飛行第四(聯)戦隊』から数多くの実戦部隊を編成して、
満州・上海・支那事変において目覚ましい戦果をあげました。
しかし、飛行第四戦隊の熊本県菊地飛行場への移駐に伴って
『熊谷陸軍飛行学校大刀洗分教場』となり、
さらに『大刀洗陸軍飛行学校』、『第五航空教育隊』が新設されるなど、
大刀洗飛行場は実戦部隊の飛行場から、
次第に、教育的施設の色を濃くしていきました。
そして、戦局の悪化のなかで、爆撃機『飛竜』の部隊による特攻が行われるなど、
若い命が数多く大空に散っていくことになりました。
昭和20年(1945年)、その存在に注目した米軍側の大空襲により壊滅的が打撃を受け、
約27年におよぶ大刀洗飛行場の歴史は幕を閉じたのでした。
※ 館内は写真撮影が禁止されているが、
唯一、旧日本海軍・零式艦上戦闘機三二型(世界で唯一の現存機) のみ、
撮影が許可されている。