平家盛と一緒に宇久島に上陸した藤原久道
墓場の入り口にある路標
一番奥にある 「 藤原久道の墓 」
墓場の入り口の右側に藤原久道の墓がある
墓の奥まで行くと藤原と刻まれた文字が確認できる
伝説によると平家盛公が壇ノ浦で平家が敗れた後、
1187年(文治3年)、宇久島の西端である火焚崎 「 船隠し 」 に、
上陸したと云われている。
( 地名の由来は家盛公が長い船旅で海風に当たっていて
冷えた体を焚き火で暖を取ったことによるとのこと )
このことは家盛に従って宇久島に渡った藤原久道の手記
「蔵否輯録(ぞうひしゅうろく)」 にて以下のように詳細に述べられている。
家盛公は平忠盛の第四子で池禅尼の子である。
天治2(1125)年に京都で生まれ、
朝廷に仕えて従五位下右馬頭(じゅごいげ・うまのかみ)に任ぜられる。
治承4(1180)年に源頼朝が平家追討の為挙兵し、
その勢力が日増しに強くなる中で、
家盛公は文治元(1185)年3月から寓居に隠棲していたが、
そこで平家一門が壇ノ浦で滅亡したことを知った。
そこで家盛は不穏な空気の流れる京を嫌い、
九州にて世を忍びたいと欲し、
自分、藤原久道に陪従して欲しい旨を相談したのである。
その藤原久道の墓が宇久島の大田江にある。
墓の入口に板で出来た路標があるが、それ以外目印になるものはなく、
地元の人に訊いて初めて、入り口の右手奥にある大きな石が墓だと知った。
墓は自然石を建てたものに、藤原久長の文字が確認できる程度であった。
ただ、こうして墓を訪れる人もいない所為か?
ほとんどの人がその場所を知らなかった。