「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

第1位 みずがめ座 ・ 今日のラッキーアドバイス 「 普段よりも派手な服装で出かける 」

2016-08-17 05:59:59 | 今日の占い ・ 二十八宿とコトバ

     今朝は、南東の空にオリオン座のベルトが
     縦に三つクッキリと並んでいた。

     昨日、昼前に一時的にスズメの涙ほどの雨が降った。
     久し振りの雨だったので感激したが、
     その後、カッと晴れたので余計に蒸し暑くなった。
     それでも鉄板焼きそばのようにチリチリ状態だった草木にとっては、
     恵みの雨に喜んだことと思う。
 
     それにしても、お盆を過ぎても相変わらず暑い日が続く。
     寒い日は服を重ね着すればいいが、
     暑い日は服を脱いでも知れている。
     こんな暑い夏は要らない。
     真剣、夏は不要だと思う。
     そんな今日の順位は1位で、
     ラッキーアドバイスは、
      「 普段よりも派手な服装で出かける 」 である。

     実力をしっかり発揮できて絶好調
     新しい方法に挑戦すると底力もUPするぞ!




長崎県宇久島  「 藤原久道の墓 」

2016-08-17 02:59:21 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )



平家盛と一緒に宇久島に上陸した藤原久道








墓場の入り口にある路標








一番奥にある 「 藤原久道の墓 」









墓場の入り口の右側に藤原久道の墓がある













墓の奥まで行くと藤原と刻まれた文字が確認できる





伝説によると平家盛公が壇ノ浦で平家が敗れた後、
1187年(文治3年)、宇久島の西端である火焚崎 「 船隠し 」 に、
上陸したと云われている。
( 地名の由来は家盛公が長い船旅で海風に当たっていて
冷えた体を焚き火で暖を取ったことによるとのこと ) 

このことは家盛に従って宇久島に渡った藤原久道の手記
 「蔵否輯録(ぞうひしゅうろく)」 にて以下のように詳細に述べられている。


家盛公は平忠盛の第四子で池禅尼の子である。
天治2(1125)年に京都で生まれ、
朝廷に仕えて従五位下右馬頭(じゅごいげ・うまのかみ)に任ぜられる。

治承4(1180)年に源頼朝が平家追討の為挙兵し、
その勢力が日増しに強くなる中で、
家盛公は文治元(1185)年3月から寓居に隠棲していたが、
そこで平家一門が壇ノ浦で滅亡したことを知った。

そこで家盛は不穏な空気の流れる京を嫌い、
九州にて世を忍びたいと欲し、
自分、藤原久道に陪従して欲しい旨を相談したのである。


その藤原久道の墓が宇久島の大田江にある。
墓の入口に板で出来た路標があるが、それ以外目印になるものはなく、
地元の人に訊いて初めて、入り口の右手奥にある大きな石が墓だと知った。
墓は自然石を建てたものに、藤原久長の文字が確認できる程度であった。

ただ、こうして墓を訪れる人もいない所為か?
ほとんどの人がその場所を知らなかった。



長崎県新上五島町 ・ 閉館した 「 海のふるさと館 」

2016-08-17 01:14:21 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



灯台をイメージした外観は遠くからでも目を引く








現在、施設は閉館している











灯台マニアからすれば、「あんな場所に灯台が・・・」って思ってしまう。
その外観はまさに灯台である。
そんな 「 海のふるさと館 」 は、
「 しんうおのめふれ愛らんど 」 の中にあり、
カラフルな外観の灯台をイメージし、
高さ19mの塔がシンボルになっている。

かつては、漁業道具や定置網で取れた約30種類の近海の魚が泳ぐ水槽を展示。
また亀などに実際にふれるコーナーもあり子供に人気があり、
五島近海の魚を見て、魚とふれあう場所であったが、
観光客の減少などから経営が困難になり、現在は閉館している。