一生懸命に上ろうとしている様 ( さま ) がよく表現されている
正面から見た須賀神社の鳥居と参道
向かって左側の狛犬はちゃんと座っている
左側の狛犬
くの字に折れた膝の角度と前脚に、見ている方も思わず力が入る
須賀神社は、北九州市小倉北区須賀町を流れる延命寺川の横にあり、
その鳥居の前に左右に狛犬が置かれているが、
神社に向かって右側の狛犬が犬塚に上れないでいるのである。
その様が如実に表現されており、極めて稀な彫り物だと思う。
そもそも狛犬 ( こまいぬ ) とは、獅子や犬に似た日本の獣で、
想像上の生物とされる。
像として神社や寺院の入口の両脇、
あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、
または守るべき寺社に背を向け、
参拝者と正対する形で置かれる事が多く、
またその際には無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされる。
飛鳥時代に日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差異はなかったが、
平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、
狭義には後者のみを 「 狛犬 」 と称すが、
現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般化している。
須賀神社は古くは 「 若一王子社 」 といい、
今でも地元の古い人は 「 にゃっこうじさん 」 と親しみをこめて呼んでいる。
前の橋の名も 「 若一王子橋 」 である。
この神社は、平安初期の元慶元年 ( 877 ) 9月8日創建という。
この年三鏡山 ( 小文字山 ) に怪火があり、
富野村では悪疫が流行し多数の死者がでた。
ある日村人が山中で出会った童子に、
「 我は須佐之男命 ( すさのおのみこと ) の化身なり。
悪疫を終わらせたくば我が宮を建てよ 」 と言われた。
村人たちは山中に神社を建て 「 若一王子社 」 と呼んだ。
悪疫は収まり平穏な里になった。
応永年間 ( 1400年頃 ) 裏山の若王子城主門司一徳斉俊親が、
山中の神社を今の所に移した。その後戦乱が絶えず神社も荒廃した。
江戸時代になって、村人たちは藩主細川忠興に神社の再興を願いでて、
元和3年(1617)130年ぶりに再建した。
また、江戸中期の有名な儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)が、
近くの小笠原藩家老の別荘「忘言帝」に来た時、ここにも立ち寄ったらしく、
「四海太平 少将之春」の書を残している。
所在地 / 北九州市小倉北区須賀町12-24