謡曲 「 綾の鼓 」 の悲恋の地、桂の池跡碑
桂の池跡にある 「 綾の鼓 」 の説明板
桂の池跡に建つ「 綾鼓演能記念 」
桂の池跡は公園になっている
後藤明生は、戦後に朝鮮半島北部の永興から福岡に引き揚げ、
高校卒業まで甘木で暮らした。
早稲田大学在学中の昭和30年 ( 1955年 ) に、
『 赤と黒の記憶 』 で学生小説コンクールに入選、
その後、創作活動を続けた。
後藤明生の作品には 「 朝倉物 」 と呼ばれるいくつかの作品がある。
その一つの 「 綾の鼓 」 は、謡曲が好きだった父と、
父の故郷を振り返る作品で、昭和53年 ( 1978年 ) に、
文芸誌 「 海 」 に発表された。
本籍地は朝倉郡朝倉町だが、
そこに一度も住んだことがない 「 わたし 」 が、
父の友人からの手紙をきっかけに朝倉を訪れる。
そこで朝倉の伝説をもとにした謡曲 「 綾鼓 」 の存在を知った 「 わたし 」 の、
父への回想が主題となっている。
「 昔、百済の国を援けるために九州に向かわれた斉明天皇という女の天子様は、
ヨソンシュク ( 現・恵蘇宿 ) の仮御所でお亡くなりになった。
それで、その子の天智天皇様はヨソンシュクの山に木の丸殿を造って、
そこに籠もられ喪に服された 」
謡曲 「 綾鼓 」 は、世阿弥作で、
斉明天皇のころ、筑前の国木の丸御殿の庭掃きの源太老人が、
女御の御姿を見て恋慕の情に悩んでいた。
この老人に、廷臣が女御の言葉を伝えると、
それは、池辺の桂木に掛けた鼓を打って、
その音が御殿まで聞こえたら今一度会ってやろうと云う条件だった。
源太老人はその鼓を見つめ、打って音が出るならば、
そのときこそ恋心の乱れを静めることができるのだと、
唯一筋に心をこめて鼓を打ってみるが一向に鳴らない。
元より鼓は綾を張ったものなので鳴り響かないのは当然であった。
なぶられたと知った老人は、いたく嘆き悲しんだ末、
池に身を投げて恨んで死ぬ。
まもなく、女御の様子がおかしくなると、
老人の怨霊が髪を振り乱し、すさまじい形相で現れ、
今度はかえって女御に綾の鼓を打ちたまえと責めさいなむ。
そのために女御は物狂わしくなり、
そして、亡霊は無限の恨みを残したまま、再び池の中に消え失せたのだった。
後藤 明生(ごとう めいせい、1932年4月4日 - 1999年8月2日)本名は明正。
朝鮮咸鏡南道永興郡生まれ。
生家は植民地朝鮮の元山市で商店を営んでいたが、
彼が中学に入学した年に敗戦となり、日本に帰国した。
その引き揚げの途中で父と祖母を失った。
旧制福岡県立朝倉中学校に転入し、早稲田大学第二文学部露文学科を卒業。
大学在学中の1955年に『赤と黒の記録』で「文藝」の全国学生小説コンクールに入選。
博報堂を経て平凡出版(現・マガジンハウス)に勤務。
1962年に『関係』で文藝賞佳作。
1967年、「文學界」に発表した『人間の病気』で芥川賞候補となる。
1968年には『S温泉からの報告』と『私的生活』で候補となり、退社。
1969年に『笑い地獄』で4度目の芥川賞候補となるが、受賞はしなかった。
1977年に『夢かたり』で平林たい子文学賞、
1981年に『吉野大夫』で谷崎潤一郎賞、
1990年に『首塚の上のアドバルーン』で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。