『 笠利町誌 』 に、この墓地について簡単な記載がある。
「 海抜約21メートルの小高い断崖の上に広げられる狭い地積に、
大島特有のサンゴ礁の板石壁と蓋石におおわれた古墳墓の間に、
島津藩の仮屋敷蔵方目付有馬十蔵、医学者有馬宗賢、新納弥兵衛、
与人格新納実章等石碑墓を並べてある。
この墓地は 「 辺留城ウドン 」 とよばれている 」 とあるが、
沖縄の王や按司たちが築いたグスクとは性質的に違い、
墓を聖域としたグスクだと思われるが、それも定かではない。
辺留グスクは、奄美大島の北に位置する
奄美市 ( 旧・笠利町 ) の東海岸へ舌状に延びた
高さ21mの岬に築かれたグスクである。
グスク下には琉球王府から薩摩藩に行政が移ってから
ここに奄美大島全体をつかさどる奉行所が設置されていた。
もともと辺留の港は喜界島の湾港とともに、
琉球国時代の主要港で盛んだったようである。
そんな辺留を詠った 『 おもろ 』 いくつか残されている。
一 きこゑ、おしかさ、
とよむ、おしかさ、
やうら、おちへ、つかい
又 き、やの、うきしま、
き、やの、もいしま
又 うきしまに、か、ら、
ひるかさり、きやち
又 ひるかさり、かち、
中、せ(とう)ち、きやち
又 なかせ(とう)ち、から
かねの、しま、かち
又 かねのしま、から、
せり、よさに、かち
又 せり、ゆさに、から、
かゑふたに、かち
又 かゑふたに、から、
あすもりに、かち
又 あすもりに、から、
かなひやふに、かち、
又 かなひやふに、から
なは、とまり、かち
この 『 おもろ 』 は、喜界島の神女が首里王府へ行くまでの、
島渡り 『 おもろ 』 の一首である。
名高く鳴り響 ( とよ ) む押笠 ( おしかさ ) 神女が、
喜界(き、や)島の湾港を出立して、
ひるかさり ( 辺留笠利 ) 、中せとうち ( 中瀬戸内 )、
かねのしま ( 徳之島 ) 、せり、ゆさ ( 沖永良部 ) 島、
かゑふた ( 与論 ) 島、あすもり ( 安須杜=辺戸の御嶽 ) 、
かなひやふ ( 金比屋武=今帰仁の御嶽 ) 、
なは、とまり ( 那覇港 ) を経て、首里城へ登城したさまを詠っている。
辺留グスクへのアクセス
辺留グスクへは、奄美市 ( 旧・笠利町 ) の笠利小学校の前に当たる。
駐車は古墓前に駐車できるが、道幅が狭く、
轍の溝がひどいので車では注意が必要である。