久々のUPになります、「ぷらっと沿線紀行」、今回は我が故郷奈良県の「JR桜井線 京終駅」です。
懐かしさで読み進むうち、意外な発見がありました。
朝日新聞夕刊より引用しながら紹介しますね。
「京終(きょうばて)」という地名が付いたのは、奈良の都の果てに位置したからということだそうですが、「此処から多くの歌声が発信され始めた」という書き出しに興味を持って読み進むと、「奈良で蚊帳を製造していた南口(なんこう)重太郎が、ジャズやシャンソンが中心だった当時、歌謡曲を広めたいと昭和9年に帝国蓄音器(現テイチクエンタテインメント)を創設」とあり、2年後に本社を京終駅近くに置いたそうで、その当時の逸話が記されていました。
何でもその頃大手レコード会社の人気作曲家だった「古賀政男さん」に偶然を装い伊東温泉で声をかけたそうで、引き抜き話に応じた古賀さんが「裸の時は素直に心が和む」と南口さんの作戦を後年、回想されていたということです。
その甲斐あってか、「東京ラプソディ(藤山一郎)」、「ああそれなのに(美ち奴)」、「人生の並木道(ディック・ミネ)」・・・等古賀作品を得たテイチクがヒット曲を連発できたようで、戦後も「狂った果実(石原裕次郎)」「チャンチキおけさ(三波春夫)」を送り出したということですが、CDの台頭で、レコードは廃れ99年には本社を東京に移したそうです。
京終駅近く(奈良県内に)に有名なレコード会社があったなんて、この記事を読むまでまったく知らなくて、驚きました。
当時は東京の他に此処京終の本社にも録音スタジオもあったようですが、線路が近いため、蒸気機関車の音が入って、やり直しがよくあったらしいそうです。
明治31年桜井線の前身の「奈良鉄道」によって開業され、県南部の農山村から消費地の奈良市へ運ばれる食料や、木材(昔から材木業が多かったです)が、奈良駅の混雑を避けるため京終駅で一旦おろされ、牛車や、荷車に積み替えられ市内各地に向かったそうで、当時は物流拠点だったようですね。
近くには17キロ程東の「山添村」と結ばれた「ロープウエー」の終着駅もあってゴンドラ状の鉄器に名産の「凍り豆腐」を載せ運搬され、京終駅経由で全国に送られたとか・・この「ロープウエー整備士」のお給料は一般会社員より高かったそうです。
戦後は主役をトラックに奪われ乗客も最近では500人(一日)程度だそうで、奈良市の中心部にありながら昭和59年に無人駅になったそうです。確かな記録はないそうですが、木造駅舎は開業当時から立替されてないようで、自動改札機もなく、明治時代の映画のロケにも使えそうだと記されてました。
桜井線と平行して古事記に記されてる「山の辺の道」がありますが、新薬師寺から桜井駅の近くの最古の市場「海拓榴市(つばいち)」跡までの27キロは今も人気の散策コースですね。「三角縁神獣鏡」が出土した「黒塚古墳」も沿道近くにあります。
縄文時代から信仰の対象だった最古の神社と伝わる「大神神社(おおみわじんじゃ)」は、pekoもお正月には何度か「三輪駅」で降りて参拝したところです。
そして先日偶然にもTV番組でこの「三輪さん(大神神社)」より杉玉を賜った酒造蔵元を取材されてた時に「此処は最古の神社より賜った証がついた軒先の杉玉ということから、酒造はこの地から始まったとされています」というお話を聞けましたが・・
ところで、右の写真の「駅名」、皆さん読めますか?「きょうばて駅」から「桜井線」を南下すると、858年の建立とされている安産祈願で知られる「帯解寺」が由来とされると記事にはあった、「おびとけ駅」です。
因みに、私達郷土の人間は「京から此処まで旅をすると帯が解けるぐらい衣服が乱れるので・・」付いたと聞かされてました・・
更に南隣は「いちのもと駅」です。櫟(いちい)の大木があったからついたようで、木の上には天狗が住んでいたとの伝説があるそうです。更に南下すると「巻向(まきむく)駅」此処は邪馬台国があったところでは?・・・とされる「纏向(まきむく)遺跡」が三輪山の北西一帯にひろがっています。
奈良駅を出て桜井線終着駅(私の実家がある)「高田駅」までの間には主人の実家の最寄り駅大和三山の一つでもある「香久山駅」、更にもう一つの畝傍山より付けられた「畝傍(うねび)駅」があります。この「畝傍駅」はかつては「橿原神宮」の最寄り駅だったことから駅舎に皇族が利用する「貴賓室」があったそうです。(これも知りませんでしたね~)
今回の「ぷらっと・・」記事には懐かしい地名がたくさん出てきて、数えるくらいしか乗ってない「桜井線」でしたが、色々逸話も読めて、知らなかったことが沢山出来て、なんと言っても郷土の事でしたし、知りたがりのpekoには、ほんとにラッキーな記事でした~