Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

断末摩の涙の日の様相

2006-11-01 | 
レクイエムの会に行った。トーマス・ヘンゲルブロック指揮のバルターザー・ノイマン合唱・管弦楽団の演奏である。

モーツァルトが最後の筆を置いたと云う八章節目に至る箇所、セクエンツァ(続唱)の「涙の日」からQUA RE-SUR-GET EX FA-VI-LLA(は い より よみ が える とき)のシラブルに音節をくっきりと区切る。音価が二倍ぐらいに感じるほどにして、フォルテへと解放する事で、昇天と云うようなイメージを明確に与える。

曲頭の入祭文からセクエンツァのこの「涙の日」までのその凝縮した主観的な緊張はここで解き放たれる。その後のオッフェルトルムでは、祭壇にパンとワインが捧げられて死者のためのミサ式次第は進む。作曲家の死を暗示して並びにその白鳥の歌が弟子によって引き継がれるところでレクイエムは客観へと転じる、それは「死者のためのミサ」の精神にそれほど違わない。これがまさにこのレクイエムの独自の形式となっている。

こうした発想をそのまま示す事自体が、非構造主義的解決法と云っても良い。丁寧に音化される、その前のめりテンポとロマンティックの対極にある演奏実践は、更に「レコルダーレ」では、よく云われる「妙なるラッパ」の魔笛的重唱にも勝る、最高傑作オペラのどのシーンにも負けぬような情感の吐露を繰り広げる。しかし、それは改めてこの作曲家の舞台劇での卓越を示すだけではない。

またそれに続く「ラクリモーサ」へと繋がる「呪われし者」での音高で示される天からの呼び出しの空間的な上下感などは、空気を支配し切らないバスの軽やかな足取りのその些か浮き足立った情景でもある。

古典派の曲となると、古楽器の弓使いや息使いと、合唱の山形フレージングが、ハーモニーの協和の山を準備するのみならず、正しいアーティクレーションへの契機となるのに気付く。実はこうした高い精度の弓使い表現は、カール・べェームなどと云う二十世紀の最高のモーツァルト指揮者が現代楽器を対象に行っていた。ただ、そうした現代楽器奏法は、音価、拍、小節、動機を均一化し均質化してその近代的機能を重視するばかりに本来音楽の持っている素朴な表現の力強さや精妙さを欠くことになっていた。

またファン・カラヤンのモーツァルト演奏はそれほど悪いものとは思わないが、この曲の録音を比べると、いかにもレクイエムと云う同郷の作曲家の白鳥の歌を名曲として全体像を把握し易くするために、 場 面 の 視 覚 的 な印象を強調している。それは、流れをあまりにも容易に設定して、細部を全体の部分として機能させているに過ぎない。これは全体における一声部でもある合唱部にも云えて、合唱付き曲を得意とした指揮者でもあるが、こういう風に器楽的にかつ平均律的な感覚で人声が扱われると、「歌なぞはいつも音程外れで、器楽的な感覚からいえばあんな不正確なものは聞いていられない。」となる。実際にこの発言をしていたのは、但しベェーム博士であった。

現代の古楽器演奏実践では、明らかに旋律の持つ音楽的ベクトルが強調されていて、その和声・律動の方向性がくっきりと浮かび上がるようになっている。であるからして近代奏法との相違を見れば、経過的に動くとする以上になにも表現出来ていなかった楽想にも、そこでは音楽が活きつくことになる。

その様な近代とは一体何であったかの、また異なる様相が、敬語を話題としたTAROさんの記事とそれに対する助六さんのコメントに示されている。そこで助六さんは、ルネ・ヤコブス指揮の「ドン・ジョヴァンニ」の公演をパリで観劇して来て、その微妙な言葉使いを指摘している。フランス革命の余波と云うべき思潮は、芸術家モーツァルトを理解する場合大変重要である。

それを、台本家ダ・ポンテが1603年出版の「スペインの放蕩者と石像の客」を土台とした創作、そして作曲家との共同作業において見て取ることが出来る。そしてこのオペラの核心にあるその思潮は、近代のオペラ上演の実践のなかで何時の間にか脇へと追いやられていったようである。それは、当時の封建制度の空気を残した時代における過激さが、そして徐々に影も無くなって形骸化した封建文化が、ブルジョワジーの文化の中へと、その管弦楽の 発 展 とともに解体されていく近代文化史の様相でもある。(今言を以って古言を視るへ続く)
コメント (2)
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