ヴァルター・ベンヤミンの資料が整理されて来ている。資料を保存する記念館などの設置事業は、友人のアドルノなどと比べて活動や発言メディア源などが限られていた上に、下野していたアウトサイダーであり、組織的母体がないのが災いしているようだ。
パリへの亡命先でのメモ類やゲシュタポから逃れてスペインへの逃避行中に生け捕りを避けて自害するまでの書きものはゲシュタポ経由でも返還されている。今回話題となっていたものの中に、1926年に恋人に誘われてモスクワへと出向き、其処で冬の二ヶ月ほどを過ごした際の日記がありすこぶる興味深い。
1926年には、ドイツに習う富国強兵の戦時共産主義体制がとられて、スターリンの独裁体制が進んでいたようであるが、ドイツ共産党を含む西欧マルキストのメッカとなっていて、多くの文化人や活動家がモスクワ詣をしている。それに、ベルリンやパリや日本などからモスクワに亡命し、その後粛清される多くの反帝国主義者や共産主義者が加わる。またこの年に作曲家のショスタコーヴィッチは交響曲作曲家として華々しいデヴューを果たしている。1927年には、アルバン・ベルク作曲の「ヴォツェック」が大々的にソヴィエトで上演されている。
ベンヤミンは、無意味なフレーズ「技術的労働の革命的性格」を好んでモスクワ滞在中の日記に綴る。パリやベルリンの町を彷徨して、過去の子供時代を回顧して、重工業や建造物をして、その町の日々の情景から様相を読み取り切り取りエッセイに定着させるこの鬼才は、研ぎ澄まされた洞察力でその隠された性格までを浮き彫りにする達人である。
そして、「モスクワに滞在して、モスクワよりもなによりも先ず逸早くベルリンを観る事が出来る。その都市や人々の光景 ― ロシア滞在への懐疑の微塵も湧かないような収穫である光景 ― は、精神の荒廃以外の何ものでもなかった。」としている。
引き続く革命に、矛盾する小市民的真綿の文化を観る。到着早々、国家経営の百貨店で甘ったるい趣味を確認して、槌と鎌の下にそれは、全くそぐわないビロード貼られた張りぼてダンボールでイミテーションされているとしている。
それは核反応のように連鎖的に生じる革命のダイナミックに、次から次へと繰り出される新しい形態にはそぐわない小市民の様相であったとされる。行き詰った革命的衝動は、レーニンによって期限付きで採られた市場経済体制であり、政治でのトロキストの敗北は、文化面ではマヤコフスキーやその同志のフォーマリズムの戦線離脱に相当するようだ。
モスクワの演出家ベルンハルト・ライヒの部屋をして、「これ以上の悪夢は無いような、一欠片の小市民の部屋。百に余るテーブル掛け、コンソール、生地や皮の張られた家具、カーテンに、殆ど息が出来ない。」と極評している。
全体主義に自由な発言を奪われた状況において、しかしベンヤミンはそこで何をすべきかを考え、気持ちを入れ替えて、百科事典のゲーテの章の執筆を請け負う。出来る限り党役員の意向に沿うように努力する。しかし、偶然に係わった1927年に失脚するカール・ラデックが嘲笑的に、各頁に十回も「階級闘争」を書き付けるのをして、この筋書きには可能性は無いとベンヤミンは綴っている。そして最終的に小市民的なオスカー・ヴェルツェルのゲーテが採用されたと耳にして、ベンヤミンは全てを悟ったようである。
もともとは、ドイツ共産党への引き合いなどが出されていた訳であるが、ここで、「個人の独立を犠牲にしたプロレタリアート独裁国の共産主義者に対して ― 自己の人生を計画する、つまり党に一任する必要がある。入党と云うことは、自らの考えを既に与えられた 場 に 投 影 すると云う莫大な優先を与えることである。形態や形而上の知的活動の基礎に、パースペクトを得る事が出来るかと云う事になる。」。その数日後「ロシアでの生活は、党内では困難で、党外では、殆ど可能性が無くても、代わらない位困難である。」と結論している。
さていよいよ核心に触れる情景描写が始まる。
「モスクワへの憧れは、夜空の星に輝く雪や白昼のそれのクリスタルの華にのみあるのではない。それは、天空にもあるのだ。町の遥か先の地平線は密集した屋波に絶えず現われる。それは、ただ夕刻にかけて見えるのだ。しかしそこでモスクワの住宅難はその驚くべき影響を示す。薄暗闇の街路を徘徊すれば、大小の家々の窓窓に輝く光を見る。その光について各々自分が燈していると信じているが、電飾は他と殆ど異なる事が無いのである。」
この一節を読んで、嘗ての東ドイツのそこかしこにの家庭の窓に飾られる寒色の蛍光ランプを思い出したが、それは二股ソケットを狭い部屋の中をあちこちへと移動させる回顧的風景でも構わない。不夜城の如く照らされる灯火でも、食事中に推奨される灯火でも本質は変わらない。
ベンヤミンは、19世紀末のベルリンでの子供時代を回想して、「冬の晩に、母は、時々私を商家へと連れて行った。…出窓や柱は暗闇に霞み、ファサードには火が灯っていた。上から吊るされていたランプに照らされて、サラのカーテンやらが置かれていた。その灯は、明るく照らされている室内に殆ど映えなかった。それは、そのもののために輝いていたに過ぎない。私は惹きつけられて物思いに沈んだ。これが、今でも記憶にある。…」。
失われた時のように、回想はその一度限りの発展へと希望の光を与える。人は、初めて歩行が出来るようになると、決して二度とこれを味わうことは出来ない。
そして、ベンヤミンは結局1927年2月に、旅行鞄を膝に押し付けてモスクワ駅へと、失望に泣きながら家路へとつく。彷徨の達人は、こうして地上の鈍ましいユートピアを報告した。
ショスターコーヴィッチ作曲の鈍ましい数多の交響曲や四重奏曲等の、ハリウッド映画のように均一化した光を当ててその小市民趣味を白昼の下に曝す、名演奏CDに耳を奪われながらこれを綴る。これを悪趣味とはいうなかれ、さもなくば新自由主義イデオロギー下で市場経済などは成り立たないのであるから。
参照:
ハルトムート・シャイブル「赤と美、これまた等しく」2006年10月28日付けFAZ
Beroliniana Walter Benjamin 1972
パリへの亡命先でのメモ類やゲシュタポから逃れてスペインへの逃避行中に生け捕りを避けて自害するまでの書きものはゲシュタポ経由でも返還されている。今回話題となっていたものの中に、1926年に恋人に誘われてモスクワへと出向き、其処で冬の二ヶ月ほどを過ごした際の日記がありすこぶる興味深い。
1926年には、ドイツに習う富国強兵の戦時共産主義体制がとられて、スターリンの独裁体制が進んでいたようであるが、ドイツ共産党を含む西欧マルキストのメッカとなっていて、多くの文化人や活動家がモスクワ詣をしている。それに、ベルリンやパリや日本などからモスクワに亡命し、その後粛清される多くの反帝国主義者や共産主義者が加わる。またこの年に作曲家のショスタコーヴィッチは交響曲作曲家として華々しいデヴューを果たしている。1927年には、アルバン・ベルク作曲の「ヴォツェック」が大々的にソヴィエトで上演されている。
ベンヤミンは、無意味なフレーズ「技術的労働の革命的性格」を好んでモスクワ滞在中の日記に綴る。パリやベルリンの町を彷徨して、過去の子供時代を回顧して、重工業や建造物をして、その町の日々の情景から様相を読み取り切り取りエッセイに定着させるこの鬼才は、研ぎ澄まされた洞察力でその隠された性格までを浮き彫りにする達人である。
そして、「モスクワに滞在して、モスクワよりもなによりも先ず逸早くベルリンを観る事が出来る。その都市や人々の光景 ― ロシア滞在への懐疑の微塵も湧かないような収穫である光景 ― は、精神の荒廃以外の何ものでもなかった。」としている。
引き続く革命に、矛盾する小市民的真綿の文化を観る。到着早々、国家経営の百貨店で甘ったるい趣味を確認して、槌と鎌の下にそれは、全くそぐわないビロード貼られた張りぼてダンボールでイミテーションされているとしている。
それは核反応のように連鎖的に生じる革命のダイナミックに、次から次へと繰り出される新しい形態にはそぐわない小市民の様相であったとされる。行き詰った革命的衝動は、レーニンによって期限付きで採られた市場経済体制であり、政治でのトロキストの敗北は、文化面ではマヤコフスキーやその同志のフォーマリズムの戦線離脱に相当するようだ。
モスクワの演出家ベルンハルト・ライヒの部屋をして、「これ以上の悪夢は無いような、一欠片の小市民の部屋。百に余るテーブル掛け、コンソール、生地や皮の張られた家具、カーテンに、殆ど息が出来ない。」と極評している。
全体主義に自由な発言を奪われた状況において、しかしベンヤミンはそこで何をすべきかを考え、気持ちを入れ替えて、百科事典のゲーテの章の執筆を請け負う。出来る限り党役員の意向に沿うように努力する。しかし、偶然に係わった1927年に失脚するカール・ラデックが嘲笑的に、各頁に十回も「階級闘争」を書き付けるのをして、この筋書きには可能性は無いとベンヤミンは綴っている。そして最終的に小市民的なオスカー・ヴェルツェルのゲーテが採用されたと耳にして、ベンヤミンは全てを悟ったようである。
もともとは、ドイツ共産党への引き合いなどが出されていた訳であるが、ここで、「個人の独立を犠牲にしたプロレタリアート独裁国の共産主義者に対して ― 自己の人生を計画する、つまり党に一任する必要がある。入党と云うことは、自らの考えを既に与えられた 場 に 投 影 すると云う莫大な優先を与えることである。形態や形而上の知的活動の基礎に、パースペクトを得る事が出来るかと云う事になる。」。その数日後「ロシアでの生活は、党内では困難で、党外では、殆ど可能性が無くても、代わらない位困難である。」と結論している。
さていよいよ核心に触れる情景描写が始まる。
「モスクワへの憧れは、夜空の星に輝く雪や白昼のそれのクリスタルの華にのみあるのではない。それは、天空にもあるのだ。町の遥か先の地平線は密集した屋波に絶えず現われる。それは、ただ夕刻にかけて見えるのだ。しかしそこでモスクワの住宅難はその驚くべき影響を示す。薄暗闇の街路を徘徊すれば、大小の家々の窓窓に輝く光を見る。その光について各々自分が燈していると信じているが、電飾は他と殆ど異なる事が無いのである。」
この一節を読んで、嘗ての東ドイツのそこかしこにの家庭の窓に飾られる寒色の蛍光ランプを思い出したが、それは二股ソケットを狭い部屋の中をあちこちへと移動させる回顧的風景でも構わない。不夜城の如く照らされる灯火でも、食事中に推奨される灯火でも本質は変わらない。
ベンヤミンは、19世紀末のベルリンでの子供時代を回想して、「冬の晩に、母は、時々私を商家へと連れて行った。…出窓や柱は暗闇に霞み、ファサードには火が灯っていた。上から吊るされていたランプに照らされて、サラのカーテンやらが置かれていた。その灯は、明るく照らされている室内に殆ど映えなかった。それは、そのもののために輝いていたに過ぎない。私は惹きつけられて物思いに沈んだ。これが、今でも記憶にある。…」。
失われた時のように、回想はその一度限りの発展へと希望の光を与える。人は、初めて歩行が出来るようになると、決して二度とこれを味わうことは出来ない。
そして、ベンヤミンは結局1927年2月に、旅行鞄を膝に押し付けてモスクワ駅へと、失望に泣きながら家路へとつく。彷徨の達人は、こうして地上の鈍ましいユートピアを報告した。
ショスターコーヴィッチ作曲の鈍ましい数多の交響曲や四重奏曲等の、ハリウッド映画のように均一化した光を当ててその小市民趣味を白昼の下に曝す、名演奏CDに耳を奪われながらこれを綴る。これを悪趣味とはいうなかれ、さもなくば新自由主義イデオロギー下で市場経済などは成り立たないのであるから。
参照:
ハルトムート・シャイブル「赤と美、これまた等しく」2006年10月28日付けFAZ
Beroliniana Walter Benjamin 1972